第2章 不本意な真夜中の出番
【真夜中のスポットライト、泥濘のリアクション】
平成25年、冬。
極貧の生活に喘いでいた潤一郎たちに、ついに千載一遇のチャンスが訪れる。
関西ローカルの深夜バラエティ番組。
その中のワンコーナーで、体を張る「若手過酷ロケ」の脇役としてレギュラー出演が決まったのだ。
「渡辺、チャンスや。これで顔を売ったら、劇場の漫才の出番も増えるかもしらん」
マネージャーからスケジュールを手渡された時、潤一郎の胸中は複雑だった。
彼が本当にやりたかったのは、マイク一本の前に立ち、言葉のセンスと巧みな掛け合いだけで客席を爆発させる「しゃべくり漫才」だったからだ。
しかし、背に腹は変えられない。
一個の塩むすびを分け合う生活から抜け出せるのなら、どんな泥水でもすする覚悟だった。
だが、始まった撮影は、潤一郎の想像を絶する過酷なものだった。
極寒の冬の川へ何度も飛び込まされ、激辛を通り越して兵器のような劇薬スープを完食させられる。ある時は、真夜中の心霊スポットで一人きりで夜明かしをさせられた。
台本には「芸人のリアクション次第」とだけ書かれており、現場は常に大怪我と隣り合わせ。
毎回、文字通り「生きた心地がしない」命がけのロケが続いた。
テレビに映る自分の顔は、泥と涙でぐしゃぐしゃだった。
放送翌日、バイト先の先輩から「テレビ見たぞ、おもろかったやん」と言われ、財布には今までよりは多くのギャラが入るようになった。
しかし、潤一郎の心を満たしたのは、達成感ではなく、底深い「虚しさ」だった。
(俺は、こんな汚いリアクションで笑いを取るために、親の大反対を押し切って芸人になったんやろか……。俺のやりたかった漫才は、どこへ行ってしもうたんや)
【相方の眼差し、王座の残響】
ある日の過酷なロケ終わり。
ロケバスから這い出るようにして降りた二人は、大阪市内の公園のベンチになだれ込んだ。
全身が打ち身で痛み、喉は激辛スパイスで火傷のようにヒリついている。
潤一郎は、手渡された缶コーヒーの熱さすら感じないほどに疲れ切り、思わず弱音を吐き出した。
「なぁ……俺ら、何やってるんやろな。こんな泥まみれになって、お笑いって何なんやろ。もう、しゃべくり漫才なんて二度とできん気がしてくるわ」
虚無感に囚われた潤一郎の言葉に、隣で同じように泥だらけになっていた相方が、ふっと静かに笑った。
相方は、自分の分の缶コーヒーのプルタブを開け、夜空を見上げながら言った。
「何を言うてんねん、潤一郎。めちゃくちゃ嬉しいことやんか」
「嬉しい……? どこがや。死にそうになってるんやぞ」
「バカ言え。あのダウンタウンさんだって、養成所の先輩の偉大な大物芸人たちだって、若い頃は、いや今だって『ガキの使い』で泥水を頭から被ったり、怪獣の着ぐるみ着て必死に体張ったりしてるやろ。あの人らのしゃべくりが日本一なのは誰の目にも明らかや。でもな、あの人らは『笑いになるなら、泥でも何でも被る』からこそ、誰も追いつけん化け物になったんや」
相方は、潤一郎の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、あの過酷な養成所で三分の二が辞めていく中でも絶対に折れなかった、芸人としての強い光がまだ消えずに残っていた。
「体を張る仕事をもらえるってことは、番組のスタッフがお前を見て『こいつなら、この泥を笑いに変えてくれる』って信用してくれた証拠や。しゃべくり漫才への道が閉ざされたわけやない。これも全部、あの道頓堀のど真ん中に立つための『前座』のステージなんや。一緒に笑いに変えていこうや」
相方の言葉が、潤一郎の冷え切った胸の奥に、じわじわと熱い火を灯していく。
(そうだ。自分たちは、一個の塩おにぎりを具がないという理由だけで等分して食べてきた、地獄を共にしたコンビなのだ。相方はまだ、あのきらびやかなお笑い界の王座を見据えて走っている)
「……せやな。お前の言う通りや」
潤一郎は、泥のついた袖で顔の汚れをゴシゴシと拭い、缶コーヒーを一口飲み干した。
虚しさは消えなかった。
過酷な明日のロケも待っている。
しかし、渡辺潤一郎の芸人としての魂は、相方の熱い言葉によって、もう一度だけあの華やかな舞台へ向けて、不格好に足掻き始めるのだった。




