第1章 お笑い芸人という蜃気楼
【道頓堀の蜃気楼、天才たちの影】
奈良の生駒の坂道を、渡辺潤一郎はただ一人、自転車で下り続けていた。
大学への進学。
それは両親が望んだ、平凡だが確実な幸せへのレールだった。
しかし、講義室の片隅でノートの余白に落書きをしながら、潤一郎の胸の中で膨らみ続けていたのは、テレビの向こう側で爆笑をかっさらう、あのきらびやかなお笑い界への憧れだった。
大学を卒業したものの、同期たちがスーツに身を包むのを尻目に、潤一郎は道頓堀にあるお笑い芸人の養成所へと進んだ。
「お笑いで飯が食えるわけがないだろう! 正気か!」
父親の怒号と、母親の涙。
大反対の嵐を背に受けながらも、潤一郎は夢の扉を叩いた。
そこは、かつてあの『ダウンタウン』をはじめ、数々のレジェンドたちを輩出した名門中の名門の専門学校だった。
しかし、入学してすぐに思い知らされたのは、そこが夢を叶える場所ではなく、夢を粉々に砕くための「巨大な脱穀機」だという現実だった。
同期には、生まれながらに人を惹きつける天性の華を持った者、一言喋るだけで教室を爆発させるような、化け物じみた才能の若者たちが全国から集まっていた。
毎週のように行われるネタ見せと、容赦ない講師たちの罵声。精神を病み、自信を失い、入学者たちの三分の二以上が一年を持たずに去っていく過酷なサバイバル。
潤一郎は何とか相方を見つけ、コンビを結成した。
しかし、話題にすらならなかった。
劇場メンバーに昇格することすらできず、時がながれた。
卒業は出来た。
それだけでも、かなり奇跡的なことであったが、その後に地獄が待っていた。
仕事が無かった。
潤一郎は、地下の冷たい床でネタを書き続ける長い下積みの沼へと沈んでいった。
【五百円の夜行、塩むすびの誓い】
「渡辺、今週の土曜、京都の劇場の昼寄席、一枠空いたから入れといたぞ」
養成所を卒業して数年が過ぎていた。
鳴かず飛ばずの日々を送っていた潤一郎たちに、ようやく舞い込んだのは、京都の小さな劇場での出番だった。
しかし、提示された出演料は「一回五百円」。
奈良の実家から京都の「家賃10000円」の超格安アパートに引越していた潤一郎。
しかし、それでも、このギャラは安すぎた。
もちろん、他に舞台に立てるチャンスなどない。
断る選択肢などなかった。
潤一郎は相方と連絡を取り合い、ボロボロの自転車を漕いで劇場へと向かった。
相方も、同じアパートの違う部屋に住んでいた。
30分ほどペダルを回し続け、劇場に着く。
必死の思いで掴んだ前座の仕事。
声を張り上げ、客席の数人の笑い声を絞り出した。
ただ、それが限界だった。
観客は、メインゲストの大物芸人を待っていた。
後から現れる大物芸人達。
それは、別世界の住人だった。
手渡されたギャラはやはり、握りつぶせそうなほどの小銭だけだった。
「……腹、減ったな」
劇場の裏口を出た時には、すでに日はとっくに暮れていた。
潤一郎と相方は、疲れ果てた体で近くのコンビニへと滑り込んだ。
財布の中身をかき集め、ようやく買えたのは、一個の100円の「塩おにぎり」だけだった。
劇場の脇の街灯の下、二人は地べたに座り込んだ。
潤一郎は慎重に、本当に慎重な手つきで、プラスチックの包装の上からおにぎりを真ん中で二つに割った。
そのためのプラスチックの小さな物差しをいつも持ち歩いている。
「ほら、お前の分」
「サンキュー……」
二人が買うのは、決まって「具の入っていない塩むすび」だけだった。
鮭や昆布といった具の入ったおにぎりを買うと、半分に割った時にどちらか一方に具が偏ってしまう。
そんな些細なことで、「俺の方が多い」「お前の方が具がデカい」と、極限状態の二人が本気の喧嘩になるのを防ぐための、悲しい知恵だった。
具のない冷たい米粒を、京都の寒風の中で噛み締める。
お笑いが好きで、誰もを笑わせたくてこの世界に飛び込んだはずなのに、今、自分たちは一個のおにぎりの具の有無で喧嘩を怯え、500円のために自転車を漕いでいる。
もう、二十代の半ばを過ぎていた。
底の見えない暗闇の中で、渡辺潤一郎の青春は、塩おにぎりの味と同じように、ただひたすらに塩っぱく、乾いた音を立てていた。




