第12章 静かなる内定通告
【怒涛の夏、最後の打席】
平成24年、夏。
裁判所事務官の二次面接を目前に控えながら、伸は大阪市役所と国立大学法人の一次試験にも出陣していた。
どちらも手応えは悪くなかったが、結果はすべて夏以降の「待ち」の状態。
息をつく暇もない過酷な連戦の中、ついに第一志望である裁判所事務官の個人面接の日がやってきた。
最激戦区・大阪高等裁判所管轄の面接室。
重苦しい空気の中、中央に座る面接官から、静かだが鋭い「突っ込み」が入る。
「岩上さん。前職は独立リーグの野球選手ですね。失礼ですが、野球しかしてこなかったあなたが、なぜこれほど厳格な法の手続きを扱う裁判所を志望されるのですか? 安定を求めての転身ですか?」
冷徹な問い。
しかし、今の伸に迷いはなかった。
専門記述のミスという「先制エラー」を背負ったマウンドだからこそ、これまでの人生のすべてを込めて、一球一球を投げ込むだけだった。
「いいえ。私は福知山線脱線事故で大切な後輩を亡くし、その法廷を傍聴しました。理不尽な悲しみに暮れる人々を、法に基づき陰で支える事務官の重みを知ったのはその時です。プロ野球は一握りの天才が輝く光の舞台ですが、私は夢に破れた痛みを知る人間として、今度は社会の底で誰かの尊厳を支えたい。そのために、志望しました」
直木先輩から授かった言葉、長谷川の姿を見た時の覚悟が、魂の乗ったストレートとなって面接官の胸に突き刺さる。
面接官たちは、伸の濁りのない、真っ直ぐな瞳をじっと見つめ、小さく、しかし深く頷いた。
【最終合格と、届かない内定】
数週間後、運命の最終合格発表。
ホームページの画面をスクロールした伸は、自分の番号を見つけ、歓喜の声を上げた。
あの専門記述のミスという大ピンチを、執念の「面接」でひっくり返し、見事に大阪高裁管轄の最終合格をもぎ取ったのだ。
しかし、裁判所事務官の採用はここからが本当の勝負だった。
最終合格イコール採用ではない。
合格順位の高い者から順に、希望する裁判所の「内定(採用意向提示)」が出されていくシステムなのだ。
初回の記述ミスが響いたのか、伸の総合順位は決して高くはなかった。
季節は秋へと移り変わる。
その間に、併願していた大阪市役所と国立大学法人からも相次いで「最終合格・内定」の通知が届いた。
職歴なしの元フリーターだった男が、今や三つの内定を手にするまでに大化けしたのだ。
父親も直木先輩も、我がことのように泣いて喜んでくれた。
民間企業の手続き期限が迫る中、それでも伸の心は、第一志望の裁判所事務官から離れられなかった。
しかし、裁判所の人事からは、待てど暮らせど連絡が来ない。
(やはり、今年の採用漏れになってしまうのか……)
冷たい秋風が吹き抜ける中、焦燥感だけが部屋に積もっていく。
【思い出の紀州、新たなるマウンドへ】
十一月も終わりに近づいたある日の午後、伸のスマートフォンが激しく震えた。
画面に表示されたのは「大阪高等裁判所人事課」の文字だった。伸は飛び起きるようにして通話ボタンを押した。
『岩上伸さんでしょうか。大変長くお待たせいたしました。裁判所事務官の採用意向をお伝えしたくご連絡いたしました』
心臓が破裂しそうなほど高鳴る。
しかし、人事担当者の口から告げられたのは、第一希望の大阪でも、第二希望の京都でもない、意外な地名だった。
『ただ、大変申し訳ありません。席の兼ね合いで、岩上さんの配置先は、第三希望に出されていた和歌山地方裁判所となります。こちらで受諾していただけますでしょうか』
「和歌山……」
受話器を握りしめたまま、伸の脳裏に、これまでの野球人生の懐かしい光景が鮮烈にフラッシュバックした。
高校時代の夏の遠征、大学時代のリーグ戦、そして独立リーグ時代に何度も泥まみれになって戦った、あの紀州の球場。
和歌山は、伸にとって勝っても負けても、常に全力を尽くしてきた「幾度もの遠征の思い出」が詰まった、切っても切り離せない特別な土地だった。
(大阪じゃない。でも……和歌山のあの熱い街が、俺を呼んでくれている)
これは偶然ではない、運命だ。
夢破れた自分を、もう一度社会のマウンドへ引き上げてくれたのは、他でもないこの司法の世界なのだから。
「はい。喜んでお受けいたします。和歌山の裁判所で、全力を尽くして働かせていただきます」
受話器の向こうの人事担当者が、ホッとしたように優しい声を出したのが分かった。
電話を切り、伸はすぐに京都校の講師室にいる伊崎進へメールを送った。
『先生、和歌山地裁での採用が決まりました。ついに、俺のマウンドが決まりました』
夕方、それを受け取った進は、いつものように眉間の皺をふっと緩め、満足げに微笑んだ。
「おめでとう、岩上さん。あなたのような泥臭いクローザー(抑え投手)こそ、和歌山の地で多くの人々を救うはずです」
平成25年、春。
元プロ野球選手・岩上伸は、真新しいスーツに身を包み、黒いバッグを抱えて和歌山行きの紀州路快速に揺られていた。
年俸280の過酷なマウンドはもうない。
だが、これからは法の守り手として、理不尽に泣く人々や、再び立ち上がろうとする人々の人生のディフェンスラインを、その鉄壁の意思で守り抜いていく。
紀州の爽やかな風が吹く中、岩上伸の、絶対に負けられない「第二の現役生活」が、今、最高のプレーボールを告げた。
(完)




