第11章 執念の粘り
【薄氷の一次突破と、西の最激戦区】
数週間後。分厚い雲の隙間から初夏の陽射しが差し込む中、裁判所事務官の一次試験合格発表が行われた。
恐る恐るインターネットの合格者一覧を開いた伸の目に飛び込んできたのは、紛れもない自身の受験番号だった。
教養試験と専門試験の択一スコアが、見事にボーダーラインを越えていたのだ。
「……通った。一次試験、突破したぞ!」
思わずガッツポーズを作った伸だったが、その歓喜は数秒と続かず、すぐに重苦しい不安へと変わっていった。
裁判所事務官の試験は、一次試験に受かれば安心という甘いものではない。
最終合格を決める二次試験は、先に行われた一次の択一スコアが一定の割合で持ち越され、そこに「専門記述試験」「論作文試験」、そして配点の極めて高い「個人面接」の点数が総合されて合否が決まるシステムなのだ。
しかも、伸が受験している「大阪高等裁判所管轄(近畿エリア)」は、採用予定人数に対して優秀な受験生が殺到する、全国でも群を抜いて合格が難しい「最激戦区」として知られていた。
少しのミスが命取りになるこの極限の戦場で、伸はあの「専門記述試験での論点ズレ」という巨大な爆弾を抱えたまま、二次試験の面接に挑まなければならないのである。
【重くのしかかる「エラー」の記憶】
予備校の自習室に座っていても、伸の頭の中には常に専門記述でのミスが暗い影を落としていた。
(択一の貯金が多少あったとしても、あの記述のミスで大幅に減点されるのは間違いない。面接でよっぽどの高得点を叩き出さない限り、俺に勝ち目はないんじゃないか……)
考えれば考えるほど、胃の奥が鉛のように重くなる。
どんなに面接の練習を繰り返しても、「すでに不合格が決まっている戦いに挑むのではないか」という疑心暗鬼が、伸の自信をじわじわと削り取っていく。
ノートに書き出した志望動機を見つめながら、伸はペンを止め、深いため息をついた。かつてマウンドで感じた、どうにもならない劣勢の空気。それが今の自分を包み込んでいた。
その時、ふと伸の脳裏に、大学野球部時代のある試合の記憶が鮮烈に蘇ってきた。
【延長戦の記憶、逆転のグラウンド】
それは、大学三年時の秋季リーグ、優勝のかかった絶対に負けられない大一番の試合だった。
先発マウンドを任された伸だったが、初回、味方内野手の痛恨のタイムリーエラーによって、あっさりと先制点を奪われてしまった。
重苦しい空気がベンチを包み、「今日はもう駄目かもしれない」という空気がチーム全体に蔓延した。
だが、伸はマウンドを降りなかった。
(まだ初回だ。たった一点のエラーで、試合が終わったわけじゃない!)
伸はそこから、泥臭く「打たせて取る」ピッチングで、強打者たちを必死に抑え込んだ。
味方もその気迫に応え、泥まみれになってゴロを捌き、体を張って追加点を防ぎ続けた。
0対1のまま迎えた九回裏。
ツーアウトから味方が執念の同点打を放ち、試合は延長戦へと突入。
そして延長十二回、死闘の末に、見事なサヨナラ勝ちを収めたのだ。
「……そうだ。野球は、二十七個のアウトを取られるまで終わらない」
自習室の蛍光灯の下、伸は小さく呟き、強く拳を握りしめた。
専門記述でのミスは、いわば「初回の痛恨のエラー」だ。確かに失点はしたかもしれない。しかし、試験全体という試合はまだ終わっていないのだ。
(エラーで一点失ったなら、残りのイニングを無失点で切り抜けて、延長戦で逆転してやればいい。俺にはまだ、「個人面接」という最大の見せ場が残っているじゃないか)
伸は、こうも考えた。
(もし記述の点数がどん底でも、面接官の心を揺さぶる圧倒的な熱量と覚悟をぶつければ、必ずひっくり返せる。絶対大丈夫だ。あの延長戦の奇跡を、今度は自分の言葉で起こすのだ)
伸は、迷いを振り切るようにバッと顔を上げると、面接ノートを力強く閉じた。
もう、下を向いている暇はない。
エラーを挽回するための「延長戦」の準備をするため、伸は力強い足取りで、予備模擬面接のブースへと向かっていった。




