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第10章 本試験での単純ミス

【初夏のプレーボール、一行の罠】


 平成24年、初夏。

 伊崎進の緻密な併願戦略のもと、岩上伸は予定通り裁判所事務官、国立大学法人、そして大阪市役所の三先への出願を無事に完了した。

 かつてマウンドで三振を狙うために球種を組み立てたように、今はペンを握り、それぞれの試験に向けて死ぬ気で刀を研いできた。


 そしてついに、第一の標的である裁判所事務官の一次試験の日がやってきた。


 張り詰めた緊張感が漂う試験会場。

 教養択一、専門択一と順調に解答を進め、伸の確かな手応えとともに、午後の「専門記述試験」の時間が始まった。

 裁判所の専門記述は、憲法の重要論点から出題される、極めてシンプルな「一行問題」である。


 開始の合図とともに問題用紙を裏返した伸の目に、その一行が飛び込んできた。


 (……あ、これは予備校の論点テキストで何度も回した、あの論点だ!)


 真面目な伸は、進に言われた通り、頻出論点の構成案を頭に叩き込んできていた。

 一見して知っているキーワードが目に飛び込んできたことで、伸の胸にわずかな「焦り」と「油断」が生じてしまった。

 伸はすぐに解答用紙に向かい、猛烈な勢いでペンを走らせた。

 一文字でも多く、正確に、これまで培ってきた知識をぶつけるように、時間一杯まで論文を書き殴った。


 しかし、終了のチャイムが鳴り、ペンを置いた直後、伸は冷や水を浴びせられたような戦慄に襲われた。


 (待てよ……。あの問題の一行、よく見たら、俺が書いた論点の一歩『手前』の制度について聞いてるんじゃないか……!?)


 慌てて問題文を読み直す。

 心臓がバクバクと早鐘を打ち、血の気が引いていく。

 問題を読み違えていた。

 出題者が求めていたのは別の核心であり、伸が書いた内容は、似て非なる「的外れな論述」――つまり、完全な論点ズレ(大間違い)だったのだ。


【暗転のマウンド、師の眼差し】


 試験を終え、京都校の講師室に駆け込んだ伸は、幽霊のように青ざめた顔で進の前に立ち尽くした。


 「伊崎先生……申し訳ありません。やってしまいました……」

 伸は声を震わせながら、専門記述での手痛いミスを報告した。

 「完全に問題を読み違えました。全く違う論点の論文を、最後まで書いてしまいました。択一がどれだけ良くても、記述がこれでは、一発で足切りです。裁判所は……もう駄目です」


 独立リーグの解散、トライアウトでの沈黙。あの時の絶望的な感覚が再び伸を襲い、視界が暗くなりかける。


 しかし、伸の悲痛な報告を聞く進の表情には、取り乱すような色は微塵もなかった。

 進はいつものように眉間に深い皺を刻んだまま、じっと伸を見つめ、どこまでも落ち着いた丁寧な敬語で語りかけた。


 「岩上さん。まずは過酷な一次試験、本当にお疲れ様でした。……なるほど、記述で読み違いをされたのですね」


 進は椅子の背にもたれることなく、机の上の資料を静かに整理しながら言葉を続けた。


 「落胆する気持ちは分かります。しかし、公務員試験の採点基準、特に裁判所の記述採点というのは、受験生が考えているほど単純なものではありません。確かに結論の方向性がズレていたとしても、あなたがこれまで真面目に積み重ねてきた『法的な思考プロセス』や『論理的な文章構成』そのものが評価され、部分点をもぎ取っている可能性は十分にあります」


 「でも、あんなに的外れな内容では……」


 「いいえ、まだ合否は分かりません」進の声に、有無を言わせぬ力がこもる。


【次の一球、面接のマウンドへ】


 進は真っ直ぐに伸の目を見据えた。


 「岩上さん。野球でも、一球の失策エラーや痛打にいつまでも囚われていては、次のバッターを抑えることはできませんね? 試験も全く同じです。一次の筆記が終わった今、あなたがすべきことは、終わった採点を神頼みすることではありません」


 進はノートを一冊、伸の前に差し出した。


 「とにかく、次の『面接』の準備です。裁判所の一次発表のすぐ後には、二次試験の面接、そして並行して進んでいる国立大学法人や大阪市役所の選考が、怒涛の勢いでやってきます。筆記の不安を引きずったまま面接官の前に立てば、勝ち目はありません」

(確かにそうだ)

 そう伸は思った。

 進は続けた。

 「あなたが法廷で誓った長谷川さんへの想い、直木先輩から託された行政の使命、それらを言葉という形にするための『模擬面接』を、今すぐ始めましょう。岩上さん、下を向いている暇はありません。次の一球に、全力を注ぐのです」


 進の理路整然とした、しかし熱い鼓舞。

 その言葉は、ミスをしてマウンドでうつむいていた元エースの胸に、もう一度闘志の火を点した。

 (そうだ。自分はまだ、一敗もしていない。ここで腐ったら、応援してくれた父親にも、直木先輩にも顔向けができない)


 「……はい! 分かりました。すぐに面接の準備に入ります!」


 伸は涙を堪えるようにして、力強く頷いた。

 平成24年、夏。

 大きな失策の痛みを胸に抱えながらも、岩上伸は伊崎進という最高の捕手のリードを信じ、次なる巨大な打者――「面接試験」という名のマウンドへ向けて、再びその闘志を研ぎ澄まし始めるのだった。

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