第9章 伸が公務員になる意義
【消えない残像、現役時代の影】
大阪地方裁判所の法廷で目撃した、腰縄をつけられた長谷川の姿。
それは、伸の脳裏に消えない烙印となって、深く焼き付いていた。
机に向かって民法や憲法のテキストを開いていても、条文の文字の背後に、あのボサボサの髪でうつむくかつての「天才」の横顔が重なってしまう。
(野球を失った人間が、社会の底辺へ転落していく。それは、決して他人事じゃない……)
行き場のない胸のざわつきを抱えた伸は、あの夜、自分の悲惨なセカンドキャリアを赤裸々に語ってくれた大学の先輩・直木を再び訪ねていた。
夕暮れ時のカフェ。
伸は、自分が一念発起して公務員試験の専門予備校に通い始めたこと、そして幅広い併願を視野に、毎日死ぬ気で机に向かっていることを打ち明けた。
直木は、伸が差し出した予備校のパンフレットをじっと見つめ、驚いたように目を見開いた。
しかし、すぐにその顔に温かい笑みを浮かべ、伸の目を真っ直ぐに見据えた。
「そうか、公務員か……! いいじゃないか、岩上。あの厳しい独立リーグを戦い抜いたお前なら、その根性で必ずやり遂げられる。職歴がないなんてことでお前を落とした民間企業どもを見返してやれ。俺は、心の底からお前を応援するぞ」
かつて「本当の地獄はここからだ」と現実の厳しさを教えてくれた先輩からの、衒いのない熱いエール。
それは、長谷川の姿を見て冷え切っていた伸の心を、確かに温めてくれた。
【夢破れた者たちの、受け皿として】
しかし、伸の表情はまだ晴れなかった。
長谷川のこと、そしてプロ野球をクビになり、アルバイトで食いつないでいるという直木自身のことが、どうしても頭から離れなかったのだ。
伸は、コーヒーカップを両手で包み込みながら、心の奥底にくすぶっていた青臭い「問い」を、直木にぶつけてみた。
「直木さん。……俺、ずっと考えているんです。俺が死ぬ気で勉強して、もし本当に公務員になれたとして……。それは、俺のように野球を奪われて路頭に迷った人間や、夢に破れて社会の隅に追いやられた仲間たちのために、何か役に立つ仕事になるんでしょうか。ただ自分が安定したいから逃げ込むだけなんじゃないかって、時々、自分の動機が独りよがりに思えてしまうんです」
長谷川の名前こそ出さなかったが、伸の声は切実だった。
直木は、伸のその生真面目すぎる問いかけを笑うことはしなかった。
それどころか、少し遠い目をして、深く息を吐き出した。
「お前は本当に昔から真面目だな、岩上。……実はな、これはお前には初めて話すんだが、俺の実の兄貴はな、地元の市役所で働く現役の公務員なんだ。それから、俺の叔父は、国に勤める国家公務員なんだよ」
「え……直木さんのご家族が、公務員なんですか?」
初耳だった。
直木がそんな身内を持っていながら、現役引退後に就職難で苦しんでいたことが、伸には少し意外に思えた。
【直木の語る、行政の底力】
「ああ、そうなんだ」直木は苦笑しながら頷いた。
「俺がプロをクビになって、毎日泥のようにアルバイトをして腐っていた時、兄貴や叔父が何て言ったと思う? 『直木、お前は野球の表舞台しか知らんから、社会のどん底に落ちたように絶望しとる。だがな、俺たちの仕事は、そのどん底で足掻いている奴らを最後の最後で支えて、もう一度社会に引っ張り上げるためのセーフティネットなんだぞ』って、そう言われたんだ」
直木はコーヒーを一口すすり、言葉を繋いだ。
「兄貴は市役所の福祉の現場で、生活に困窮した人たちや、仕事を失った人たちの相談に乗って、生きる基盤を立て直す手助けを毎日している。叔父は国家公務員として、もっと大きな枠組みで、雇用対策や再チャレンジの制度を整える仕事に携わっている」
直木は、なおも話を続けた。
「あいつらの話を聞いて、俺は気づいたんだよ。プロ野球は、選ばれた一握りの天才たちが拍手を浴びる、きらびやかな『光』の舞台だ。でも、世の中には、その光から漏れてしまった人間、夢に破れて立ち上がれなくなった人間がごまんといる。行政……つまり公務員の本当の価値は、そういう傷ついた人たちを誰一人見捨てず、社会の底から支える『影の守り神』であることなんだよ」
直木は、伸の肩を力強く叩いた。
「お前は独立リーグの過酷さも、チームが消滅する絶望も、全部知っている。夢が破れる痛みが分かるお前が公務員になるということは、これから同じように傷つき、苦しむ市民や国民の痛みに、誰よりも寄り添える職員になるということだ。それが、夢破れた仲間たちのために、社会のために役に立たないわけがないだろう」
直木の言葉は、伸の胸の奥で、法廷の長谷川の姿と完全にリンクした。
そうだ。
裁判所事務官も、大学法人も、大阪市役所も。
形は違えど、すべては傷ついた人間や、これから未来へ向かう人間を「陰で支える」ための、社会の強固なディフェンスラインなのだ。
「直木さん……俺、霧が晴れたみたいです。自分のやるべきことが、本当の意味で分かりました」
梅田の街に夜の帳が下りる頃。
元プロ野球選手・岩上伸の瞳には、もう迷いの色はなかった。
光のステージを終えた男は、今、社会の底を支える「最大の守り神」となるため、再びテキストの山が待つ予備校のデスクへと向かう。
長谷川への、そして直木への想いをすべて原動力に変えて、彼のペンは、かつてないほどの鋭さで白いノートを埋め尽くし始めるのだった。




