第8章 裁判所での悲しき再会
【日常のビート、予期せぬ登板】
本格的に予備校のカリキュラムが始まってからも、伸は週に数日の野球コーチのアルバイトを辞めずに続けていた。
ぶ厚いテキストと格闘し、数的処理のパズルに脳を休む間もなく酷使される日々。
だからこそ、グラウンドで泥まみれになって白球を追いかける子供たちの声は、伸にとって最高の「気分転換」であり、心のバランスを保つための貴重なセーフティネットになっていた。
そんなある日の講義後。進は面談ブースで、いつものように眉間に深い皺を刻みながら伸に語りかけた。
「岩上さん。勉強の進捗は非常に順調です。あなたの持ち前の実直さが、着実に知識の土台を作っています。……ここで、少し気分を変えて、もう一度裁判所の『傍聴』に行ってみてはいかがですか?」
「傍聴、ですか?」
「ええ」進は静かに眼鏡のブリッジを押し上げた。
「あなたが目指す裁判所事務官が、実際にどのような緊張感の中で、どのような『人間』を相手に仕事をしているのか。一度、実際の現場を見てくると良いでしょう」
「……分かりました。裁判所に問い合わせてみます」
【法廷の静寂、引き裂かれた記憶】
1ヶ月後。
爽やかな汗を流した野球教室の翌日、伸はスーツに身を包み、大阪地方裁判所の重厚な建物の前に立っていた。
案内板に目を走らせる。いくつかの法廷で様々な事件の審理が行われていたが、事務官の仕事の全体像を見やすそうな、手続きの比較的シンプルな「窃盗事件」の初公判が行われる法廷を今回は選んだ。
傍聴席の木製の椅子に腰を下ろす。
前方に座る裁判官、検察官、そして弁護人の厳格な佇まい。
その中央で、てきぱきと書類を裁き、法廷の秩序を影でコントロールしているのが、裁判所事務官と書記官たちだった。
(いつか、俺もあの場所に立つんだ――)
伸が背筋を伸ばし、その仕事ぶりを目に焼き付けようとした、その時だった。
「被告人を動議します。入廷してください」
刑務官に促され、法廷の脇のドアから、腰縄と手錠をかけられた小柄な男が、力なく入ってきた。
その男が証言台の前に立ち、裁判官に向かってペコリと頭を下げた瞬間、伸は座席から飛び起きそうになるほどの衝撃を受け、息を呑んだ。
(……嘘だろ。嘘、だろ……!?)
伸びきったボサボサの髪。ひどく痩せ細り、青白い顔をして、酷く汚れたスウェットを着ている。
しかし、その鋭い鼻筋と、どこか面影の残る冷たい瞳には、見覚えがありすぎた。
それは――かつて高校時代、「天才」と謳われ、将来を嘱望されていた元チームメイトの、長谷川だった。
【壊れた天才、容赦なき求刑】
長谷川は、伸がどれだけ努力しても追いつけないほどの圧倒的な野球センスを持っていた。
誰もが「あいつは絶対にプロに行く」と信じて疑わなかった怪物。
しかし、二年の秋、長谷川は試合中に肩の致命的な大ケガを負った。
野球を奪われた長谷川の心は、一瞬にしてへし折れてしまった。
間もなく彼は高校も中退し、チームの仲間たちの前から煙のように姿を消した。
音信不通のまま、もう何年も経っていた。
まさか、こんな場所で、こんな姿で再会することになるなんて。
検察官が、抑揚のない冷徹な声で起訴状を読み上げ始める。
伸の耳に、残酷な現実が次々と突き刺さる。
「被告人は……生活費に困窮した挙げ句、深夜の量販店および民家に侵入し、現金を盗み……。過去にも同罪での前科が複数回あり、執行猶予中の再犯である……」
長谷川は、証言台の前でただ小さく丸まり、蚊の鳴くような声で「間違いありません」と事実を認めることしかできなかった。
かつてグラウンドで見せていた、あの圧倒的な輝きや、自信に満ちた笑顔は、微塵も残っていなかった。
「……被告人は、更生の機会を何度も与えられながら、それを自ら放棄し、窃盗を繰り返している。常習性は極めて高く、社会的な非難は免れない。よって、被告人に対し、懲役二年六ヶ月の実刑を求刑する」
実刑、求刑。
それは、長谷川が今度は「刑務所」という本物の檻の中に送られることを意味していた。
法廷の中で、淡々と進められていく手続き。
書記官と事務官の手によって、長谷川の「犯罪」の記録が、冷厳な書類として次々と処理されていく。
伸は、ただ傍聴席で拳を強く握りしめ、震えを止めることができなかった。
野球を失い、居場所を失い、社会の底辺へ転落していった天才の末路。
それは、もし一歩間違えていれば、あの球団解散の夜、路頭に迷っていた自分自身の姿だったかもしれないのだ。
福知山線で命を落とした後輩の遺族の無念とはまた違う、あまりにも重く、あまりにも生々しい「人間の業」と「法の現実」が、今、伸の目の前に突きつけられていた。




