第7章 伸の新たな目標
【白紙のノート、三つの球種】
父親から手渡された白い封筒を抱え、伸は再び予備校の門をくぐった。
手続きを終え、正式に受講生となった伸は、個別面談室で伊崎進と向かい合っていた。
机の上には、真新しいテキストと、これから始まる果てしない闘いのための白いノートが置かれている。
「改めて、入校おめでとうございます、岩上さん。ここからがあなたの第二ステージの始まりです」
進は終始丁寧な敬語を崩さず、しかしその眼差しには、一人の教え子を本気で育てるという強い熱量が宿っていた。
「さあ、まずは具体的な『配球』……つまり、受験先の絞り込みを行いましょう。先日は国家・地方を幅広く受ける併願戦略をお伝えしましたが、岩上さんご自身は、現時点で具体的にどのような仕事、あるいは自治体に関心をお持ちですか?」
進の問いかけに、伸は少し緊張しながらも、心の中に温めていた三つの選択肢を、一つひとつ言葉にしていった。
「はい。まだ知識が追いついていない部分もあるのですが……今のところ、国家公務員の裁判所事務官、それから国立大学法人、そして大阪市役所に強い関心があります」
「ほう、裁判所事務官、大学法人、そして大阪市ですか」
進は手元の資料にその三つを書き留めると、眼鏡の奥の目をわずかに細めた。
「どれも非常に人気が高く、試験の難易度もそこそこあります。それぞれを目指そうと思われたのには、岩上さんなりの明確な『理由』があるのでしょうか」
【福知山線の残響、法廷の誓い】
「はい。まず、裁判所事務官についてですが……」
伸は一瞬、視線を落とし、胸の奥にある痛みに触れるようにして静かに語り始めた。
「平成十七年のことです。JR福知山線の脱線事故で、私は当時、高校の野球部で一緒だった大切な後輩を亡くしました。あいつは本当にいい奴で、将来を期待されていたピッチャーでした。事故の後、私はあいつの遺族の皆さんが関わる裁判を、何度も傍聴席から見守ってきたんです」
進は腕を組み、静かに伸の言葉に耳を傾けている。
「法廷の中で、遺族の皆さんが涙を流しながら無念を訴え、それに対して法に基づき、厳格に、しかし真摯に手続きが進められていく光景を目の当たりにしました。その時、理不尽な悲しみに暮れる人々に対して、法という厳格なルールを守りながら、裁判が円滑に進むように陰で支える『裁判所事務官』という仕事の重みを知ったんです。あいつの命を奪った悲劇を忘れないためにも、今度は自分が、司法の現場で誰かの無念や正義を支える存在になりたい。それが一番の理由です」
「……なるほど。当事者の痛みを傍聴席から見つめ、司法の使命を感じ取られたわけですね」
進の低い声が、静かに部屋に染み込んでいく。
「次に大学法人ですが、これは私が大学の硬式野球部にいた頃の経験からです。遠征の手配やグラウンドの管理、奨学金の手続きなど、表舞台に立つ私たちを影で、文字通り泥臭く支えてくれたのが大学の職員の方々でした。プロを引退して初めて、あの時のサポートがいかに有り難かったかを痛感しまして、今度は自分が、これからの未来を担う学生たちを支える側になりたいと考えました」
「そして、大阪市役所ですね」進が先を促す。
「はい。私が所属していた独立リーグの球団は、大阪を本拠地にしていました。年俸280万の過酷な毎日でしたが、大阪の街の人々や中小企業の皆さんには、本当に温かく応援していただきました。チームはああいう形で解散してしまいましたが、私は今でも大阪の街に深い愛着があります。今度は野球ではなく、行政の側から、大阪の市民の皆さんの生活を直接ハッピーにしたいんです」
【伊崎の編曲、ストライクゾーンの確定】
伸が三つの志望動機を語り終えると、面談室にしばしの静寂が訪れた。
進は眉間の深い皺に指を当て、しばらくの間、じっと考え込んでいた。伸は「また的外れなことを言ってしまっただろうか」と不安が胸をよぎる。
しかし、進が顔を上げた時、その瞳には確かな確信の光が灯っていた。
進は、どこまでも丁寧な口調で、しかし力強く語り始めた。
「岩上さん。素晴らしい『動機』です。あなたの語られた三つの理由は、すべてあなた自身の血の通った『実体験』から紡ぎ出されている。マニュアルを書き写したような薄っぺらな志望動機ではありません」
進は資料を取り出した。
去年の受験案内だった。
「裁判所事務官の試験は、憲法の専門記述試験も課されます。かなり難関です。しかし、その熱量があれば、突破できると思います。大学法人や大阪市役所は、あなたの持つ『真面目さ』と『献身』を高く評価するはずです。この三つの目標を達成する『練習メニュー(カリキュラム)』を今から組みます」
進は振り返り、カッと目を見開いて伸を見据えた。
「後輩への誓い、大学での恩義、そして大阪への愛着を、公務員試験というマウンドで、形にしましょう」
「……はい! よろしくお願いします!」
平成24年、春。
元プロ野球選手・岩上伸の胸に、かつてないほどに明確な「三つの標的」が定まった。
亡き後輩の面影を胸に、そして家族や周囲の恩義に報いるため、岩上伸の、人生をかけた第二打席へのカウントダウンが、今、激しく鳴り響いた。




