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第6章 父の応援と新たな道

【リビングの灯火、父の足音】


 予備校から自宅へと戻った伸は、自室の机の上で、受け取ったばかりのパンフレットと見積書を前に、じっとにらめっこを続けていた。


 ページをめくれば、裁判所事務官、国税専門官、地方自治体といった輝かしい文字が並び、進が示してくれた併願戦略のロードマップが克明に描かれている。

 チャンスは確かにある。

 だが、見積書の最下部に印字された「二十万円台前半」という数字が、まるで行く手を阻む巨大なディフェンダーのように、伸の前に立ち塞がっていた。


(今の貯金じゃ、半分にも足りない。野球教室のバイトを増やしても、授業が始まれば勉強時間の確保と両立できなくなる。親に頭を捨てるか、それとも……)


 ぐるぐると思考が空回りし、思わず頭を抱えたその時だった。


 コンコン、と控えめなノックの音がして、自室のドアが開いた。入ってきたのは、居間でテレビを見ていたはずの父親だった。


 「伸。ちょっと、いいか」


 普段は無口で、伸の野球人生を遠くから静かに見守るだけだった父親が、珍しく真剣な面持ちで伸の対面に腰掛けた。

 父親の視線が、机の上に広げられた予備校のパンフレット、そしてスタッフが電卓を叩いて弾き出した見積書へと注がれる。


 「……さっき、お前が帰ってきた時の顔を見てな。ずいぶんと険しい表情をしていたから、気になっていたんだ。公務員の予備校に行ってきたのか」


 「あ、あぁ。民間企業の面接をいくつか受けたけど、職歴のない元野球選手じゃどこも相手にしてくれなくてさ。新聞でお坊さんから市役所に転職した人の記事を見て、ここなら自分にもチャンスがあるかもしれないと思って、話を聞きに行ってきたんだ」


 伸が少し気まずそうにパンフレットを片付けようとすると、父親はそれを手で制し、眼鏡の位置を直しながら言った。


 「その予備校……伊崎先生という講師がいるところだろう。実はな、お父さんの昔からの友人で、三十代を過ぎてから会社を辞めて公務員に転職した奴がいるんだが、そいつも全く同じ予備校に通っていたんだ。あそこの指導は本当に熱心で、引きこもりだった塾生や、お前のように職歴のない人間でも、みんな一人前に叩き直して合格させてくれると、あいつがいつも絶賛していたよ」


 意外な繋がりに、伸は目を見開いた。進の予備校の評判は、すでに身近なところにも届いていたのだ。


【電卓の裏側、親父の背中】


 父親は、見積書の赤ペンで書かれた数字をもう一度見つめると、静かに伸の顔を覗き込んだ。


 「伸。もしかして、費用のことで悩んでいるのか」


 核心を突く言葉だった。


 伸は一瞬、言葉を詰まらせた。

 プライドが邪魔をして、「自分でなんとかする」と言い張りたかった。

 しかし、銀行口座の「十万円少し」という残高は、どんなに意地を張っても増えはしない。


 伸は小さく息を吐き出すと、力なく、しかし黙って深く頷いた。


 「……情けない話だけど、独立リーグの時の給料じゃ貯金なんてほとんどできなくてさ。今の全財産を叩いても、受講料の半分にも届かないんだ。また親に迷惑をかけるわけにはいかないし、一週間、考える時間をくれたから、バイトのシフトをどう回すか考えていたところだったんだ」


 伸の消え入りそうな声を聞いた父親は、怒る風でもなく、ふっと優しく目元を和らげた。


 「何を水臭いことを言っているんだ。お前は二十代のすべてを、プロの野球選手として死ぬ気で戦ってきたじゃないか。自分の力で精一杯生きて、チームの解散という不運にあっても、腐らずに次の人生を切り拓こうとしている。それを応援しない親がどこにいる」


 父親はズボンのポケットから財布を取り出し、机の上にそっと置いた。


 「ちょうどな、お父さんももうすぐ定年を迎える。ありがたいことに、近いうちにまとまった退職金が入ってくる予定なんだ。それに、それとは別に、お前たちの将来のためにコツコツと貯めてきた古い蓄えもある。だから、この受講料のことは一切心配しなくていい。この金を使って、堂々と予備校に払いに行きなさい」


【一週間の決意、契約の第二打席】


 「親父……」


 伸の胸の奥から、熱いものが一気に込み上げてきた。


 年俸280万の過酷な世界で、ボロボロのユニフォームを着てマウンドに立っていた時も、父親は文句一つ言わずに、毎回の試合結果を気にしてくれていた。

 そして、野球というアイデンティティを失い、社会の路頭に迷いかけた今、再び立ち上がろうとする背中を、これ以上ない大きな愛で押し支えようとしてくれている。


 「ありがとうございます。この恩は……公務員に一発で合格して、絶対に立派な社会人になって返します」


 「あぁ。お前は要領は悪くても、昔から一度決めた練習は絶対にサボらない男だ。お父さんは、お前のその『真面目さ』を誰よりも信じているよ」


 父親は伸の肩をポンと力強く叩くと、それ以上は何も言わず、リビングへと戻っていった。


 翌朝、伸の机の上には、父親が用意してくれた受講料分の現金が、白い封筒に収められていた。


 一週間の猶予のうち、まだ二日しか経っていない。

 しかし、岩上伸の心には、もう迷いも、焦燥感も残っていなかった。


 (親父、ありがとう。俺、もう一度、マウンドに立つよ)


 伸は白い封筒とパンフレットをしっかりとバッグに詰め込むと、予備校の大阪梅田校へと向かうため、家を飛び出した。


 ただ打たせて取るだけの地味なピッチングから、今度は国家公務員、地方公務員という巨大なバッターボックスを相手に、自らの努力という剛速球を投げ込むために。


 伊崎進の待つ予備校の門を、伸は今、かつてない覚悟に満ちた足取りで、再び叩くのだった。

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