第5章 受講料という名の難敵
【面談室の羅針盤、広がる戦野】
予備校の重いガラス扉を開けると、そこは独特の静謐さと、受験生たちの熱気が混ざり合った空間だった。
案内された個別面談室で待つこと数分、ノックの音とともに一人の男が入ってきた。
専任講師の伊崎進だった。
知的で落ち着いた佇まいの中に、数多くの受験生を修羅場から救ってきたであろう、確かな風格を備えている。
「はじめまして、岩上さん。講師の伊崎です。お電話をいただいてから、すぐにお越しくださったのですね」
進は終始丁寧な所作で一礼し、伸の対面に腰掛けた。
社会人を相手にするプロフェッショナルとして、その言葉遣いは徹底して敬語であり、伸の張り詰めた緊張を自然と解きほぐしていく。
「お坊さんから転職された方の記事をご覧になったとか。ええ、当校では年齢や経歴に関係なく、多くの方がゼロからスタートして合格を勝ち取っています。岩上さんは、これまでは野球一筋で来られたとお聞きしましたが」
「はい。小学校から中学、高校、そして大学、独立リーグまで、本当に野球三昧の人生でした。ビジネスの経験もありません。でも……もし自分に可能性があるのなら、チャンスを広げるために、受けられる試験は何でも、いくつでも挑戦してみたいんです」
伸が真っ直ぐに進の目を見据えて決意を語ると、進は深く頷き、手元の資料を広げた。
「素晴らしい覚悟ですね。実は公務員試験というのは、科目の重複が非常に多いのです。岩上さんが『何でもチャレンジしたい』とおっしゃるなら、地方自治体の市役所だけでなく、国家公務員一般職や国税専門官、あるいは裁判所事務官など、国家公務員も含めた幅広い併願戦略をお勧めします。試験の回数が増えれば、それだけ打席に立つ回数が増えるのと同じですから、合格の確率は飛躍的に上がりますよ」
「国家公務員、ですか……。そんな大それた試験、自分に解けるでしょうか」
一瞬気後れした伸に、進は穏やかに微笑みかけた。
「問題ありません。公務員試験の教養択一試験は、いわば『努力の量を測る試験』です。聞けば、岩上さんは野球漬けの日々の中でも、学校の成績はそれほど悪くなかったとか」
「はい、要領は良くなかったですが、宿題や提出物は絶対にサボらない性分でしたので、真面目に授業は受けていました。成績も、中の上くらいは維持していたと思います」
「それなら十分な基礎体力があります。私たちのカリキュラム通りにステップを踏めば、必ず戦えるようになります。岩上さんのその『真面目さ』こそが、長丁場の受験勉強において最大の武器になるはずです」
【電卓の冷徹、残高の現実】
進の論理的で温かい言葉に、伸の胸は高鳴った。
ここでなら、もう一度勝負ができる。
しかし、次なる現実が、冷徹な数字となって伸の前に提示された。
「では、岩上さんに最適な『国家・地方幅広く狙う併願コース』の受講料について、スタッフからご説明いたしますね」
進の合図で同席していた予備校の女性スタッフが、一通の見積書を机に置いた。
「こちらが通常の受講料になります。総額で約三十万円でございます」
(三十万……!)
伸は小さく息を呑んだ。現在の伸にとって、それはあまりにも重い大金だった。
独立リーグ時代の乏しい蓄えは日々の生活で削られ、現在の銀行口座の残高は、十万円を少し超える程度しか残っていない。
全財産を叩いても全く足りないのだ。
伸の表情の陰りを察したスタッフが、すかさず資料をめくりながら電卓を取り出した。
「岩上様は本日、お電話からすぐにご相談に来てくださいましたので、こちらの『受講相談当日割引』が適用されます。さらに、前職を退職されて現在求職中とのことですので、こちらの『退職者応援割引』も併せて適用させていただけます」
カチャカチャカチャ、とスタッフの指先が素早く電卓のキーを叩く。
カチリ、と弾かれた液晶画面には、新しい数字が浮かび上がっていた。
「こちらの二つの割引を適用いたしますと……はい。受講料はかなりの減額となり、二十万円台前半まで抑えることが可能です。現時点で私どもがご提示できる、最大限の割引価格でございます」
スタッフが電卓をこちらに向け、丁寧な手つきで提示する。
二十万円台前半。
確かに、当初の三十万円に比べれば大幅に安くなっている。
予備校側の誠意も十分に伝わってきた。
だが、それでも今の伸の貯蓄額「十万円少し」からは、大きくはみ出していることに変わりはなかった。
【一週間の猶予、マウンドの手前で】
電卓の数字を見つめたまま、言葉を詰まらせる伸。
野球教室のアルバイト代が入るとしても、ここから生活費を払いながら二十数万円を捻出するのは、容易なことではない。
沈黙する伸の心中を、進はすべて察していた。
無理に今日、契約を迫るような真似はしなかった。
スタッフも、椅子の背にもたれることなく語りかけた。
「岩上様。私たちはあなたの人生のセカンドキャリアを、全力で応援したいと思っています。だからこそ、じっくりと納得した上で決めていただきたいのです。このお見積書と割引の権利は、本日から一週間、そのまま有効とさせていただきます」
次は進が話す番だった。
「公務員試験は人生をかけた大きな勝負です。お金のことも含めて、ご家族に相談されるなり、アルバイトのシフトを調整されるなり、一週間かけてじっくりとお考えになってください。もし、もう一度人生のマウンドに立つ覚悟が決まりましたら、いつでもご連絡をいただけますか。私たちは、その覚悟を裏切らないだけの準備をしてお待ちしております」
「……ありがとうございます。一週間、必死に考えて、答えを出します」
伸は見積書を両手で受け取り、深く頭を下げて面談室を後にした。
予備校を出ると、夕方の冷たい風が伸の頬を打った。
手元にあるのは、二十万円台前半という現実的な壁が書かれた一枚の紙。そして、一週間という猶予。
チャンスの舞台は目の前にある。
あとは、この金をどう工面するか、そして本当に自分がやり抜けるのか――。
岩上伸の人生で最も濃密な、一週間の熟考が始まろうとしていた。




