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第4章 転機到来

【少年たちの笑顔、消えない焦燥】


 平成24年、春。

 路頭に迷いかけた伸は、大学時代のつながりを頼り、週に数日、子供向けの野球教室でコーチのアルバイトを始めていた。


 「岩上コーチ! 見てて、今のバッティングどうだった?」

 「今のトップの位置、すごく良かったぞ。その調子だ!」


 純粋な目で白球を追いかける少年たちに囲まれている時間は、確かに楽しかった。

 自分が培ってきた技術を教え、子供たちが笑顔になるのを見るのは、引退で傷ついた伸の心をいくらか癒してくれた。

 しかし、それはあくまで時給千数百円の「アルバイト」に過ぎなかった。

 夕方に教室が終われば、再びあの冷酷な現実が伸を包み込む。


 空いた時間を見つけては民間企業の求人に応募し、慣れないスーツを着て面接へと足を運んだが、結果は惨憺さんたんたるものだった。


 「岩上さん、あなたのガッツは素晴らしい。でもね、我が社が求めているのは、今すぐ実務で数字を出せる人間なんだ。営業の経験もPCのスキルもない二十代半ばを、一から育てる余裕は今のうちにはないんだよ」


 どこへ行っても、直木の言っていた通りの言葉を突きつけられる。

 面接官たちの目は、「元プロ野球選手」という肩書を珍しがりはするものの、戦力としては全く信用していないようだった。

(野球教室のバイトは一生続けられるわけじゃない。俺は、このまま社会の底辺に沈んでいくのか……)

 迫り来る年齢の壁と、減っていく貯金残高。

 伸の心は、春の暖かさとは裏腹に、じわじわと焦燥感に焼き尽くされようとしていた。


【紙面の一閃、鳳凰の軌跡】


 そんなある日の午前中。次の面接への重い腰が上がらず、自宅の居間でぼんやりと新聞をめくっていた伸の手が、ある地方版の特集記事のところでピタリと止まった。


 『異色の転身――衣を脱いだ元僧侶、市民に寄り添う市役所職員へ』


 そこには、真新しいスーツに身を包み、穏やかな、しかし芯のある引き締まった表情でインタビューに答える一人の男の写真があった。

 その名前は、森町颯。

 数年前まで京都の由緒あるお寺で副住職を務めていた元僧侶が、一念発起して猛勉強の末、見事に市役所の採用試験を突破し、現在は福祉の現場で住民のために大活躍しているという内容の特集記事だった。


 「お坊さんが……市役所の職員に?」


 伸は、貪るようにその記事を読み進めた。

 お寺という、民間企業とは全く異なる特殊な世界で生きてきた人間が、公務員試験という公平な舞台で見事に「実力」を証明し、セカンドキャリアを切り拓いた。

 その事実は、暗闇にいた伸の脳裏に、稲妻のような衝撃を与えた。


 (待てよ……。お坊さんっていう、ビジネス経験が全くない人でも、努力次第で公務員に転職できたんだ。だったら……死ぬ気でグラウンドを走り回って、プロの世界で泥にまみれて戦ってきた野球選手にだって、挑戦する資格はあるんじゃないか?)


 公務員試験は、年齢制限さえ満たしていれば、学歴や前職の経歴に関係なく、筆記試験と面接の点数だけで平等に評価される――かつて直木が言っていた「社会の冷徹さ」の裏側にある、公務員試験の「圧倒的な公平さ」に、伸は一筋の、しかし強烈な光を見た。


【一報の覚悟、新たなマウンドへ】


 記事の最後の方に、その元僧侶が通っていたという予備校の記述が、小さく載っていた。

 伸は、迷わなかった。

 今ここで動かなければ、二度とこの泥沼から抜け出せないという本能的な確信があった。


 すぐにスマートフォンを握りしめ、記載されていた公務員試験対策予備校の番号をダイヤルする。

 ツーツーという呼出音の後、事務員の落ち着いた声が響いた。

 『はい、公務員試験対策予備校でございます』


 「あ、あの……入校の相談をしたいのですが」

 伸は緊張で乾いた喉を鳴らしながら、必死に言葉を紡いだ。

 「自分は、これまで野球しかしてこなかった人間です。二十代半ばで、職歴もありません。それでも……そちらの予備校で学べば、公務員になれる可能性はありますか? 記事で見た森町さんのように、人生をやり直したいんです」


 事務員は一瞬、その熱量に圧倒されたように静止したが、すぐに優しい声で答えた。

 『ご安心ください。当校には、あなたのように様々な背景から公務員を目指し、合格していった受講生がたくさんおります。まずは一度、個別面談にお越しになりませんか? 明日はちょうど、京都から専任講師の伊崎が参っておりますので、直接お話を伺うことができますよ』


 「伊崎、先生……。はい、今からすぐに向かいます!」


 通話を終えた伸は、野球教室で使っているボロボロのスポーツバッグではなく、これまで一度も使っていなかったノートとペンを取り出し、ジャケットを羽織った。


 チームの解散、トライアウトの挫折、そしてセカンドキャリアの暗闇。

 すべての不運を経験した元プロ野球選手・岩上伸が、人生という名のゲームの舞台に立つため、今、伊崎進の待つ新たなマウンドへと力強く歩みを進め始めた。

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