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第3章 退団・引退

【トライアウトのこく、そして終幕】


 チームの解散から数週間、伸は暗闇の中をもがくように練習を続けていた。

 野球をこのまま辞めてしまっていいのか、その迷いを断ち切るように、伸は一縷の望みをかけてプロ野球合同トライアウトへの挑戦を決意した。


 しかし、トライアウトの現実は冷酷だった。

 「あんなものは、事前に獲得する選手をほぼ決めている出来レースだ。当日やるのはただのセレモニーに過ぎない」

 野球界の裏側で囁かれるそんな冷徹な事実を、伸も知らなかったわけではない。

 それでも、マウンドに上がって得意の精密なコントロールを見せつければ、どこかのスカウトの目に留まるかもしれない――そんな淡い期待に賭けていた。


 結果は、残酷なほどの沈黙だった。

 バッターを狙い通り内野ゴロに仕留めても、スタンドに陣取るスカウトたちのスピードガンが反応することはなかった。

 彼らが求めているのは、「150キロの本格派」であって、伸は必要なかったのだ。

 数日待っても、伸の携帯電話が鳴ることは一度もなかった。

 どこからもお呼びはかからなかった。


 「……ここまで、か」


 伸は、泥のついたグラブを静かにバッグに収めた。

 20代半ば。

 肉体はまだ動くが、プロ野球選手としての岩上伸の寿命は、ここに完全に尽きたのだと、認めざるを得なかった。


【先輩の告白、暗転するセカンドキャリア】


 引退を決意したものの、その先に何をすればいいのか全く見当がつかない。

 伸は今後の身の振り方を相談するため、大学時代の二学年先輩である直木なおきに連絡を取り、大阪梅田の居酒屋で顔を合わせた。


 直木は、大学時代にドラフト上位で指名され、華々しくパ・リーグの球団へと入団した、伸にとって憧れの存在だった。

 しかし、プロの壁は厚く、直木は一軍の華やかな舞台を経験することなく二軍で結果を模索し続け、二十代半ばで戦力外通告を受け、引退していた。


 「岩上、トライアウト残念だったな。……でもな、本当の地獄はここからだぞ」


 ジョッキを傾ける直木の顔は、現役時代の輝きを失い、ひどく疲れ切っていた。

 直木は、引退後に自分が味わった生々しい挫折の過去を、ぽつりぽつりと語り始めた。


 「プロ野球選手なんて肩書は、一歩社会に出れば何の役にも立たん。俺も引退した直後は、すぐにどこかの企業が雇ってくれると高を括っていたんだ。だが、面接に行っても『野球しかしてこなかった20代半ばの男』なんて、どこもまともに相手にしてくれない。名刺の切り方も、パソコンの使い方も知らんのだから当然だ」


 直木は自嘲気味に笑い、自分の乾いた手のひらを見つめた。


 「結局、何十社も落ちて、生活のために夜間の道路工事や、倉庫の荷出しのアルバイトで食いつなぐしかなかった。毎日、身体中が痛くてな……。現役時代、二軍でもあんなに綺麗で恵まれた環境で野球をやらせてもらっていたのが、まるで遠い前世の出来事のようだったよ」


【しがみつく資格なき、路頭の迷子】


 直木の言葉は、伸の胸の奥深くに、冷たい恐怖となって突き刺さった。


 「辞めた後の社会に、こんなにも仕事がない、居場所がないと最初から分かっていれば……どんなに惨めでも、年俸が下がっても、あの独立リーグの球団にしがみついて、意地でも野球界に残る方法を探したのに……っ」


 伸は、思わず目の前のグラスを強く握りしめた。

 独立リーグの年俸二百八十万は確かに過酷だった。

 生活は苦しかった。

 しかし、そこにはまだ「野球選手」としてのプライドと、守られた居場所があったのだ。

 その場所を失った今、自分がどれほど冷酷な荒野に放り出されたのかを、直木の話を通じて初めて思い知らされた。


 だが、いくら後悔したところで、もう今さら、どうしようもなかった。

 所属していた球団は賭博事件で木端微塵に解散し、トライアウトの門扉も完全に閉ざされた。

 自分の意思で辞めたのではない、帰るべきマウンドは、この世界のどこにも残っていないのだ。


 「悪いな、岩上。脅すようなことばかり言って。でも、これが俺たちの現実なんだ」

 直木はすまなそうに言ったが、伸の耳にはもう届いていなかった。


 居酒屋を出ると、梅田の街はきらびやかなネオンと、足早に行き交うスーツ姿のサラリーマンたちで溢れていた。誰もが自分の役割を持ち、社会の歯車として堂々と生きているように見える。

 その雑踏の中で、元エースで四番の岩上伸は、ただ一人、行くべき宛てを失った路頭の迷子のように、立ち尽くすことしかできなかった。

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