第2章 チームの解散
【ロッカールームの密謀、魔の分析力】
平成23年の夏、独立リーグの過酷さは肉体だけでなく、選手たちの精神をも確実に蝕んでいた。
年俸280万円という低賃金。
さらに、毎日続く練習と過酷な遠征スケジュールの合間を縫って、体力を削りながら深夜のアルバイトをするのは、アスリートとして実質的に不可能な領域に達していた。
「なぁ岩上。もっと手っ取り早く、確実に行けるシノギがあるとしたら、興味ないか?」
ある日の練習後、ロッカールームの片隅で、伸の女房役である正捕手の男が、声を潜めて近づいてきた。
彼は、伸の「打たせて取るピッチング」の良さを最も理解し、絶妙なリードで伸を支えてくれる、チームに欠かせない最高の相棒だった。
しかし、彼にはもう一つの「天才的な才能」があった。
それは、リーグに属する全選手のデータ、球癖、当日の風向きやグラウンドコンディションまでをも完全に網羅する、驚異的な情報分析力だった。
彼が目をつけたのは、裏社会の人間が主催する「野球賭博」だった。
自分たちのリーグの試合展開を、その圧倒的な分析力で読み解き、信じられないほどの的中率で裏の金を稼いでいたのだ。
「俺らの頭脳があれば、独立リーグの給料なんてはした金に見えるぞ」
伸は、相棒の濁った瞳を見て、本能的に不吉なものを感じた。
「……俺はいい。野球以外でややこしいことに関わりたくない」
伸はそれ以上、詳しい話を聞こうとはしなかった。
相棒が具体的にどんな違法行為に手を染めているのか、その詳細を深く知る恐怖もあった。
ただ、日を追うごとに、相棒が身につける時計や私物が不相応に豪華になっていくのを、伸は複雑な思いで見つめることしかできなかった。
【密室の審問、そして崩壊のファンファーレ】
秋風が吹き始めた頃、突然、チームに激震が走った。
遠征先のホテルで、伸は球団職員から「今すぐ臨時の個別面談室に来い」と呼び出された。
重苦しいドアを開けると、そこには顔を真っ青にした球団幹部と、険しい表情で腕を組む監督が同席していた。
「岩上。お前の相棒のキャッチャーについてだ。あいつが裏で『野球賭博』に関与しているという極めて確度の高い情報が入った。……お前、あいつの一番近くにいて、何か聞いていないか? 金のやり取りや、八百長の持ちかけはなかったか?」
監督の鋭い視線が伸を射抜く。
伸は心臓が早鐘を打つのを感じながらも、真っ直ぐに答えた。
「いえ……何も知りません。あいつが何かややこしいシノギがあるような口ぶりをしたことはありますが、具体的な中身については、私は全く関知していません」
それは嘘ではなかった。
詳細を知らなかったからこそ、伸は厳格な審問を乗り切ることができた。
球団側も、伸の潔白を認め、その場は引き下がった。
しかし、破滅へのカウントダウンはすでに止まっていなかった。
面接から数日後、ついに警察の家宅捜索が入り、あの相棒の捕手は違法賭博開帳図利の容疑で逮捕された。
そのニュースは「独立リーグで野球賭博」というセンセーショナルな見出しで、全国に駆け巡った。
事件の衝撃はそれだけに留まらなかった。
相棒の驚異的な的中率の裏には、他チームの複数の選手への情報流出や、組織的な関与の疑いがもたれたのだ。
スポンサーは一斉に撤退し、世論の猛烈なバッシングを浴びた球団は、もはや存続の道を完全に絶たれた。
「本日をもって、我が球団は解散する」
どんよりとした冬のロッカールームで、監督が頭を下げた。
好きな野球を仕事にして、ボロボロになりながらもマウンドにしがみついていた伸の日常は、信頼していた相棒の犯罪によって、一瞬にして消滅した。
二十代半ば、職歴なし、後ろ盾なし。
残されたのは、泥にまみれたグラブと、「解散球団の元プロ選手」という冷ややかな烙印だけだった。
絶望の底に突き落とされた岩上伸の前に、人生の荒涼とした冬が、容赦なく広がっていた。




