第1章 独立リーグの孤独
【マウンドの白昼夢、過酷なマトリクス】
平成23年、春。大阪市内の地方球場。
乾いた快音とともに、白球がうららかな青空へと吸い込まれていく。
マウンド上に立ち尽くす岩上伸は、ゆっくりと外野フェンスへと向かうその軌跡を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
「おい、岩上! 切り替えろ、切り替えろ!」
ベンチからの野次に、伸は泥まみれのグローブを叩き直した。
幼い頃から、伸はどこへ行っても「エースで四番」の野球少年だった。
自分の投げた球で三振を奪い、自分のバットで試合を決める。
それが世界のすべてだった。
しかし、成長とともに現れる本物の天才たちの前で、その万能感は少しずつ削り取られていった。
高校ではあと一歩のところで甲子園出場を逃し、進学した名門大学では一軍にこそ残れたものの、全国の化け物たちの中で「突出した成績」を残すことはできずに最後の大会を終えた。
そんな伸が辛うじてプロへの切符を掴んだのは、針の穴を通すような制球力と、芯を外して「打たせて取るピッチング」という、極めて地味な泥臭い技術が評価されたからだった。
大阪を拠点とする独立リーグへの入団。それは「プロ野球選手」という、少年時代の夢の形をギリギリで満たしてくれるものだった。
だが、待っていた独立リーグでの毎日は、華やかなプロのイメージとはかけ離れた、過酷極まる泥濘(泥沼)だった。
【年俸二百八十万の現実と、迫る影】
「今月の遠征費、各自の口座から引いとくからな」
プレハブの部室に、監督の事務的な声が響く。
伸に提示された年俸は、わずか二百八十万円。
そこから税金が引かれ、道具代や日々の遠征の食費、体のメンテナンス費用を支払えば、手元にはほとんど何も残らない。
シーズンオフになれば、夜間の倉庫での荷出しや、深夜のコンビニバイトで食い繋ぐ生活が当たり前だった。
華やかなNPB(日本プロ野球)とは違い、観客席はいつもまばら。
球場への移動は、何時間も格安の夜行バスに揺られる強行軍だ。
体は常に悲鳴を上げ、寝不足の頭でマウンドに上がる日も少なくなかった。
「好きな野球を仕事にできたんだから、幸せだろ」
世間はそう言うかもしれない。
しかし、二十代半ばを迎えた伸の心には、底冷えするような大きな不安が、年々重くのしかかっていた。
(俺は一体、いつまでこの生活を続けられるんだ……?)
独立リーグは、NPBへ行くための通過点だ。
しかし、ここで何年足掻こうとも、スカウトの目に留まるのは一握りの「10マイル(160キロ)の豪速球を投げる怪物」や「異次元の飛距離を持つスラッガー」ばかり。
伸のような「打たせて取る」堅実なピッチングは、独立リーグの試合を成立させるためには重宝されても、上の世界へ引き上げられることは滅多にない。
気がつけば、一緒に甲子園を目指した高校の同級生たちは、大学を卒業して大手企業に就職し、結婚し、一丁前の「社会人」として人生の階段を上っている。
翻って自分は、ボロボロのユニフォームを着て、明日をも知れぬ年俸280万のサバイバルに身を投じている。
もしここで肩を壊したら、自分には一体何が残るのだろうか。
履歴書の職歴欄に書ける言葉を、伸は一つも持っていなかった。
「ストライク、バッターアウト!」
審判のコールが響く。打たせて取った内野ゴロ。
ピンチを切り抜けたというのに、伸の胸を満たしたのは、歓喜ではなく、自分の未来が見えないことへの深い焦燥感だった。
平成23年。
大阪のうだるような夏が始まろうとする中、マウンドに立つ元エースの背中に、人生の大きな岐路を告げる足音が、静かに近づいていた。




