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第7章 五線譜の上の公務員

【薄い封書、大学受験のトラウマ】


 秋風が吹き始めた、兵庫県庁の最終合格発表の日。

 花咲翼は、午前10時の発表時刻が過ぎても、パソコンの画面を開くことができなかった。

 スマートフォンで県庁のホームページにアクセスするだけの簡単な操作が、どうしても恐ろしい。

 耳の奥で、あの最終面接官の「あなたを採用しようとは思いませんでした」という冷酷な声が再生され、指がすくんでしまうのだ。

(どうせ落ちている。あんな悲惨な面接で受かるはずがない……)

 現実から目を背けたまま、さらに数日が流れた。


 そんなある日の午後、実家のポストに一通の封書が届いた。差出人は「兵庫県人事委員会」。

 翼はそれを見た瞬間、自分の血の気が一気に引いていくのを感じた。


「……薄い」


 封筒は、中にペラ紙が一枚入っているだけの手応えしかない、極めて薄いものだった。

 その瞬間、翼の脳裏に、かつての大学受験の苦い記憶がありありと蘇ってきた。

 当時、合格した私大からのレターパックは、入学手続きの書類や分厚いパンフレットが何冊も同封され、ずっしりと重かった。

 逆に、不合格だった大学からの通知は、文字通りペラ一通の薄い封書だったのだ。


(やっぱり、不合格通知か……)


 確定した絶望が、薄い紙切れとなって手元にある。

 翼はそれを開ける気力すら失い、机の上にぽつんと置いたまま、深く大きな溜息をついた。

 音楽の道を断たれ、必死にしがみついた公務員という蜘蛛の糸も、ついにぷつりと切れてしまったのだと、冷たい現実を噛み締めていた。


【一本のメール、逆転のファンファーレ】


 静まり返った自室で、翼が放心していたその時、スマートフォンが短く震えた。

 画面を見ると、翼の受験番号を知っており、かつて「公務員は前職に関係なく採用される」と勧めてくれた、あの現職公務員の友人からのメールだった。


 『翼、合格おめでとう!!!』


 唐突な祝福の言葉に、翼の思考は完全にフリーズした。

 『何を言ってるんだ。今、県庁から薄い封書が届いたところだ。落ちたよ』

 すぐにそう返信すると、間髪入れずに次のメールが届く。


 『いや、落ちてない! 俺、さっき県庁のHPの合格者一覧見たぞ。お前の番号、確かにあった。お前、受験番号は「行政・○○○○」で間違いないよな?』


 友人の送ってきた数字は、間違いなく翼の受験番号だった。

 『嘘だろ……? 間違いない。でも、それなら何でこんなに封筒が薄いんだよ』


 『バカ、公務員試験は大学受験とは違うんだよ! 就職試験だから、合格者に分厚い手続き書なんて届かない。ペラ一枚の通知だけなんだよ。いいから、今すぐ自分でホームページを見てみろ!』


 友人の必死な文面に急かされるようにして、翼は震える手でパソコンを起動した。

 心臓が破裂しそうなほどの鼓動の中、兵庫県庁の採用情報のページを開く。

 最終合格者のPDFファイルをダウンロードし、ゆっくりと画面をスクロールしていく。


「……あ」


 そこには、紛れもなく、自分の受験番号がくっきりと並んでいた。

 何度も目をこすり、友人のメールの数字と見比べ、自分の受験票を確認する。

 間違いない。自分の番号だ。


 翼は慌てて、机の上に放置していたあの「薄い封書」をバリバリと引き破るようにして開封した。

 中から出てきたのは、友人の言う通り、一枚のシンプルな白い紙だった。

 そこには、格式高い文字でこう印字されていた。


 「右の者を、採用予定者名簿に掲載した」


「受かった……。俺、本当に県庁に受かったんだ……!」


 次の瞬間、翼の目から涙が一気に溢れ出た。

 あの理不尽に思えた面接も、最後の引きつった歪な笑顔も、すべてはこの大逆転のドラマのための伏線だったのだ。

 進の言っていた「まだ分からない」という言葉の、本当の意味が、ようやく理解できた。


【師への伝言、新しい楽曲の始まり】


 翼は涙を拭うのも忘れ、すぐにパソコンに向かうと、京都校にいる進宛てに猛烈な勢いでメールを打ち込んだ。


 【件名】最終合格のご報告(花咲翼)

> 伊崎先生

> たった今、県庁のホームページと通知書を確認しました。

> 最終合格していました。自分の番号がありました!

> 薄い封書が届いたので、完全に不合格だと思い込んでいました。就職試験だから薄いのだと友人に言われ、本当に驚いています。

> あの最悪だと思った面接で、なぜ合格できたのか、まだ狐につままれたような気持ちですが……先生が「まだ分からない」とおっしゃった通りになりました。

> 音楽しかやってこなかった僕を見捨てず、ここまで導いてくださり、本当に、本当にありがとうございました!


 送信ボタンをクリックした翼は、窓を開け、神戸の秋の風を胸いっぱいに吸い込んだ。


 その頃、京都校の講師室でメールを受け取った進は、いつものように眉間に深い皺を寄せたまま、画面を見つめていた。

 しかし、翼の合格の文字を確認すると、その皺をふっと緩め、誰にも見せないような満足げな笑みを浮かべた。


 「……当然です、花咲さん」

 進は低く呟いた。


 あの最終面接官の「採用しようと思わない」という  揺さぶりに対し、普通の受験者なら、反論するか、絶望して黙り込んでいただろう。

 しかし、翼は泥臭く引きつりながらも、進の教えを忠実に守り、最後まで「笑顔」を作ろうと足掻いた。

 その悲痛で、しかし強靭な「伝えようとする意志」こそが、県庁の最高層の心を動かしたのだ。

 常人には真似できない、表現者・花咲翼にしか奏でられない最高のエンディングだった。


 平成24年春。

 確固たる生活の基盤を手に入れた元ミュージシャンは、県庁の重い扉を叩き、県民のための新しいステージへと上がる。

 守られた聖域の中で、彼はこれからも、誰のためでもない自分だけの純粋な旋律を、一生涯、紡ぎ続けていくのだろう。


(完)

これで、花咲翼の物語は完結しました。次回から、元プロ野球選手岩上伸の物語が始まります。ご期待ください。

※全て、実話を元にしたフィクションです。

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