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第4章 出願

【出願の季節、ペン先の沈黙】


 平成24年、4月。 神戸の街に照りつける猛暑のなか、兵庫県庁の採用試験の出願時期が、容赦なく翼の前に迫っていた。


 主要科目の学習は進の提示した「四つのコード」戦略によって少しずつ軌道に乗っていた。

 しかし、出願にあたって、翼は新たな、そして最大の防壁に行く手を阻まれていた。

 それは、願書に書き込まねばならない「エントリーシート(志望動機・自己PR)」だった。


 翼のペンは完全に沈黙していた。

  「……何を書けばいいんだ」


 志望動機の欄を見つめ、脳裏に浮かぶ本音は「音楽を純粋に続けるための生活基盤が欲しいから」だった。

 だが、そんなことを書けば一発で落とされる。

 かといって、借りてきたような「地域社会に貢献したい」「県民の皆様の幸福のために」といった美辞麗句を並べてみても、画面の中の作り物のような嘘臭さが漂い、自分の言葉としての魂がこれっぽっちも宿らなかった。


 自己PRにいたっては、さらに悲惨だった。

 二十代のすべてを、売れないバンド活動とソロの弾き語りに捧げてきた。

 職歴といえば、深夜のコンビニや居酒屋のアルバイトの掛け持ちだけ。

 「私の強みは、ライブハウスで客がゼロでも歌い続けた根性です……? いや、そんなのただの哀れな売れ残りだろ」

 自分で書いた文字を消しゴムで激しく消すたびに、紙が黒く汚れ、翼の心も同じように濁っていった。

 自分の生きてきた軌跡が、いかに社会の枠組みから外れた無価値なものであったかを、改めて突きつけられているようだった。


 悪戦苦闘の末、精神的に限界を迎えた翼は、書きかけの、消しゴムの跡だらけのシートを抱えて、個別ブースにいた進のもとへと駆け込んだ。


【二者面談の雷鳴、言葉の「編曲」】


 「伊崎先生……もう、どうしても書けません。僕の二十代には、県庁の面接官に誇れるような実績なんて、何一つないんです」


 絞り出すように言った翼の前に、進はいつものようにパイプ椅子を引き寄せて座った。

 進は、泥だらけの楽譜を見るような眼差しで、翼が差し出した消しゴムの跡だらけのシートをじっくりと見つめた。

 そこには、無理に自分を大きく見せようとした、歪で自信なさげな言葉が並んでいた。


 「花咲さん」

  進は低く、しかし面談室の空気を震わせるような声で語り始めた。

 その眉間の皺は深く、真剣そのものだった。


 「あなたのこのシートは、良い内容なのにもったいない。他人を意識しすぎるあまり、あなたの本来のメロディが奏でられていません」


 「……本来のメロディ、ですか」


 「そうです。他の受験者の多くは学生です。予備校の面接マニュアルに書いてある『模範解答』は、学生や一般的な会社員からの転職を想定して作っています。それを無理矢理花咲さんに当てはめようとするから、難しいのです。作詞作曲と同じだと思います。自分の内なる真実を言葉とメロディに乗せて、他者の魂に届ける作業です。 花咲さん自身の生の経験を、面接官の心に刺さるように書けばのです」


 進は赤いペンを手に取ると、翼のシートの「自己PR」の欄を指し示した。


 「花咲さんは『音楽しかやってこなかったから、アピールできる実績がない』とのことですが、それは違います。花咲さんの活動は、ただ楽器を鳴らすことだけではないはずです。自ら曲を書き、ライブの構成を企画し、自らライブハウスと交渉して枠を確保し、チラシを作って集客をし、時には他のバンドと共同でイベントをプロデュースしてきた。……これは、行政の世界でも活かせる能力です」


 翼はハッと息を呑んだ。

 進の言葉が、自分の過去の泥に、目も眩むような光を当てていく。


 「これは、ゼロから企画を立ち上げ、予算を管理し、外部の関係者と交渉し、自らの手で広報して実行する『総合プロデュース能力』です。マニュアルを待つことしかできない若者には真似できない力です。 ライブハウスの客が少なかったとしても、その厳しい逆風の中で、どうすれば数少ない聴衆の心を掴み、次回に繋げられるかを必死に考え、歌い続けてきた。これこそが、行政における『逆境を乗り越える粘り強さ』であり、『個々の声に真摯に向き合う傾聴力』そのものです」


【魂のプロテスト、出願へのシンフォニー】


 進のペンが、シートの上に、まるで激しいドラムのビートを刻むように力強く走り始めた。

 消しゴムで汚れた紙の上に、進の赤ペンによって、翼の魂の叫びが「県庁を揺るがす最高の旋律」へと生まれ変わっていく。


 「志望動機も同じです。東日本大震災を経た平成23年の今、兵庫県庁が何よりも必要としているのは、被災した県民全体のことを考え、調整し、復興へのメッセージを的確に、そして温かく届けられる『伝える力』です。 花咲さんには、言葉と声という武器を使って、人の感情を直接動かしてきた『伝達のプロフェッショナル』としての絶対的な経験がある。音楽という聖域を守りながら、その情熱を今度は、市町村の調整だけでなく、兵庫県民全体に向けた心のケアという巨大なステージのために捧げる。これでどうですか」


 書き終えた進が、赤ペンだらけのシートを翼の前に差し出した。

 そこには、翼が生きてきた不器用な二十代のすべてが、何一つ嘘をつくことなく、圧倒的な説得力と誇りに満ちた言葉で表現されていた。


 『自己PRの編曲』私の強みは、ゼロから企画を立ち上げ、最後までやり遂げる「総合プロデュース能力」と、逆境に負けない「精神的強靭さ」です。 ソロのアーティストとして、楽曲の制作からライブイベントの企画、会場との交渉、広報活動までをすべて自らの手で主体的に行ってまいりました。思うように集客ができない時期もありましたが、その都度、聴衆一人ひとりの反応を分析して表現を磨き直し、真摯に向き合い調整を続けてまいりました。 この「厳しい環境下でも自ら考え行動し、人々の心を動かす伝達力」は、県庁における地域活性化の企画や、県民の皆様のニーズを捉えた広報・政策、あるいは複雑な調整の場で、必ず活かせると確信しております。


 『志望動機の編曲』より安心安全な住みよい兵庫県にしたいと考え志望しました。これまで音楽を通じて「言葉を届けること」に心血を注いできました。ファンクラブの会員の一人が東日本大震災で被災されたことをきっかけに安心安全を確保する県庁の仕事に関心を持ち、調べると、防災以外にも様々な県民生活を守る取り組みをされていることを知りました。そして、人々の生活の基盤と命を守る役割を担いたいと強く決意し、転職を決めました。県民の皆様の不安を解消すべく市町村間の調整、企業・団体への支援を行うべく、音楽活動で培った「多様な価値観を受け止め、共感を生み出す力」を活かし、全力で尽くしてまいります。


 赤ペンの文字を見つめる翼の目から、熱いものがポロポロとシートに落ちた。

 自分の不格好な人生は、ゴミなんかじゃなかった。

 これほどまでに美しく、そして誰かのために活かせる可能性に満ちた、輝かしい楽譜だったのだ。


 「伊崎先生……ありがとうございます。僕、これを持って、胸を張って願書を出してきます」


 「そうですね。花咲さん」

 進は眉間の皺を和らげ、どこか不器用な、しかしこの上なく温かい笑顔で頷いた。

 「もう、花咲さんの新しいステージは目の前ですね」


 平成24年、春。

 書き上げられたエントリーシートを大切に鞄に収め、翼は予備校の門を出た。

 三宮の眩しい陽光のなか、元ミュージシャン・花咲翼は、自らの人生のすべてを詰め込んだ願書を握り締め、県庁のいただきへと向かって、力強く一歩を踏み出すのだった。

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