第3章 本当の音楽人生
【未練のコード、残る残響】
進のアドバイスに従い、主要科目の学習を少しずつ生活のリズムに組み込み始めた翼だったが、心の奥底には、常に重く冷たい澱のようなものが横たわっていた。
(これで俺の音楽は終わりなのか……?)
本音を言えば、音楽を完全に諦めることはできなかった。
自分の魂そのものである作詞作曲を、そして歌うことを手放したくはなかった。
しかし、公務員の世界には「地方公務員法第38条」――営利企業への従事等の制限、いわゆる兼業禁止の厳格な壁が存在する。
県庁職員になるということは、プロのアーティストとしての道、チケット代を受け取ってステージに立つ生活とは完全に決別することを意味していた。
その選択の重さと辛さに、翼の胸は引き裂かれそうになっていた。
思い詰めた翼は、音楽業界の裏方としてレーベルに勤める、かつてのバンド仲間を訪ねた。
三宮の騒々しい喫茶店で、翼は堰を切ったように自分の迷いを打ち明けた。
「……なぁ。俺、やっぱり音楽を捨てきれへん。でも、もうフリーターを続けられる年齢でもないんだ。公務員になったら、兼業は禁止や。もう二度と、自分の歌を世に出せなくなるんかな」
友人は、運ばれてきたコーヒーを静かにすすり、翼の苦渋に満ちた顔をじっと見つめていた。
そして、諭すような優しい声で言った。
「翼。公務員の兼業禁止ってのは、裏を返せば『音楽で金を稼いじゃいけない』ってだけだろ? だったらさ、趣味として音楽活動を続ければいいじゃないか。平日は県庁でしっかり働いて、週末に自分の部屋で曲を書いて、ネットに無料でアップしたり、休日に趣味の仲間とスタジオに入ったりする。それのどこが悪いんだよ。プロとして売れなきゃいけないっていう呪縛から解放されて、本当に自分の書きたい曲を、純粋に趣味として楽しむ生き方だって、絶対に素晴らしいよ」
(趣味として、音楽を続ける――。)
友人の言葉は理路整然としており、十分に納得のいくものだった。
しかし、それでも翼の胸のモヤモヤは晴れなかった。
10代の頃から「音楽で生きていく」ことだけを目標に尖り続けてきた男にとって、それを「趣味」という枠に収めてしまう決断は、自分の青春のすべてを否定するようで、どうしても踏ん切りがつかなかったのだ。
【定時制の記憶、生活と魂の天秤】
翌日、翼は重い足取りで予備校へ向かい、個別ブースで進にその葛藤をありのままに相談した。
「友人には『趣味として続ければいい』と言われました。頭では納得できるんです。でも……自分の中で、プロを諦めて趣味に逃げるような気がして、どうしても決断ができないんです」
進は腕を組み、静かに翼の話を聞いていた。
その眉間の皺は深く刻まれていたが、その瞳には、かつてないほどの深い共感と慈愛の色が宿っていた。
進はゆっくりと腕を解くと、自身の遠い過去を紐解くように語り始めた。
「花咲さん。プライベートで表現を楽しむことと、それで食べていく、つまりプロになることの間には、大きな違いがあります。……少し、私の話をしましょう」
進の声は、静かに面談室に響いた。
それは、平成23年の現代から、はるか昔、進が大阪の夜間定時制高校に通っていた頃の記憶だった。
「私はかつて、14歳で天涯孤独の身となり、生きるために大阪の夜間定時制高校へ進学し、大変な寮生活を送っていました。朝昼は図書館で働き、夜は定時制に通う。うちは大学進学のお金を出してくれませんでしたし、大学に行くための資金を、自分の手で貯めないといけなかったのです」
翼は息を呑み、進の言葉に聞き入った。
進は当時の光景を思い出すように、自らの手を見つめた。
「お金が無ければ大学には行けません。でも私は、どうしても法律を学びたかった。私の思いを支えたのは、図書館での労働による収入です。お金があれば、いくらでも純粋に夢を追えるんです」
【聖域としての音楽、真の自立】
進は真っ直ぐに翼を見据え、その言葉に熱を込めた。
「花咲さん。今のあなたは、売れない現実と、音楽性の妥協の間で、生活も魂も両方とも辛くなってしまっています」
進は、真直ぐに翼を見つめた。
「公務員として県庁で働くのは、音楽を『捨てる』ためではありません。毎月確実な『生活の基盤』を保障されて、好きな音楽が出来るんです。生活のために書きたくない曲を我慢して書くなんて地獄です」
(確かにそうだ)
翼は顔を上げた。
「平日は県民のために全力を尽くし、守られた確固たる生活の上で、休日は、あなた自身の魂のためだけに、一寸の妥協もない純粋な曲を書きましょう。これこそ、最高の音楽人生ではないですか。最も贅沢で、最も気高い『自立』の姿ではありませんか」
「大人の、表現者としての、自立……」
翼の口から、その言葉が自然と漏れ出た。
進の語った定時制時代の壮絶なエピソード、そして「生活の基盤があってこそ、魂の聖域が守られる」という至言は、翼の脳裏で鮮烈な閃光となって弾けた。
プロとして売れること、音楽にしがみつくことだけが正義ではない。
むしろ、誰にも侵されない絶対的な生活を手に入れることで、自分の音楽は初めて、商業主義の泥にまみれない「本物の芸術」として完成するのではないか。
翼の胸の奥で、止まっていた音楽のビートが、今度は迷いのない力強いテンポで刻まれ始めた。
「伊崎先生……僕、ようやく分かりました。県庁に行きます。自分の生活を、そして自分の音楽を本当の意味で守るために、この試験を絶対に突破してみせます」
「がんばりましょう、花咲さん!」
進はカッと目を見開き、満足そうに深く頷いた。
平成23年、夏の夜。
神戸の夜空を見上げた花咲翼の瞳には、もう未練の曇りはなかった。
生活という強固な土台の上に、誰も真似できない自分だけの純粋な旋律を響かせるため、元ミュージシャンは今、公務員試験という名の新たな五線譜に向かって、情熱のすべてを注ぎ込む決意を固めるのだった。




