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第2章 久しぶりの学習生活の苦痛

【眠れる学力の覚醒、そして「科目」という名の巨大な壁】


 伊崎進との出会いから数日後。

 翼は神戸の自宅にいた。

 机の上に山積みにされたのは、予備校から届いた公務員試験用のぶ厚い参考書や過去問集の数々。

 憲法、民法、行政法、経済原論、財政学、政治学、行政学、さらには数的処理に文章理解、世界史、日本史、地理、思想、文学・芸術、物理、化学、生物、地学……。


 「……まじかよ。これ、全部やるのか」

 翼は思わず、額を押さえて絶句した。


 県庁の行政職試験は、市役所の教養試験とは異なり、膨大な「専門科目」が課される。

 その科目数は優に二十を超え、公務員試験の中でも最高峰の学習量が求められる、文字通りの総合総力戦だった。


【翼の苦悩】


 もともと、翼は関西でも有数の有名私立大学を卒業しており、地頭じあたまは決して悪くなかった。

 高校や大学受験の貯金があるため、文章理解(現代文・英文)や、日本史、世界史といった知識問題のテキストを開けば、「ああ、こういうことだったな」と、かつての記憶の断片がパズルのように嵌まっていく感覚はあった。

 基礎的な学力の土台は、確かに眠っていたのだ。


 しかし、致命的な問題があった。

 「……集中力が、1時間も持たない」

 20代のほとんどをギターを抱えてステージに立ち、あるいは深夜のアルバイトに費やしてきた翼にとって、「机に向かってひたすらペンを握り、ぶ厚い本を読み込む」という行為は、あまりにも長く遠ざかっていた日常だった。


 ライブハウスの喧騒や、爆音のスタジオに慣れきった脳にとって、静まり返った自習室の空気は、かえって拷問のように感じられた。

 5分おきに携帯電話を見てしまい、気がつけばルーズリーフの余白に新しい曲のコード進行や歌詞のフレーズを落書きしている始末。


 特に、法律の条文や「経済原論」のグラフの羅列は、翼の脳を完全に拒絶した。

 「憲法第14条……法の下の平等……。だめだ、文字が記号にしか見えない」

 一週間も経つと、頭痛と焦燥感ばかりが募り、翼のペンは完全に止まってしまった。

 自分にはやはり、こんな地味な作業は向いていないのではないか。

 またしても諦めの文字が頭をよぎった。

 今日は伊崎進講師が、神戸校に巡回に来る日だ。

 翼は、講師との面談の予約を入れていた。


【進からのアドバイス】


「花咲さん。随分と苦しそうな顔をされていますね」

 進はいつものように眉間に深い皺を刻みながら、翼の前にパイプ椅子を置いて腰掛けた。

 机の上の落書きだらけのルーズリーフを見て、ふっと口元を緩める。


「先生……すみません。頭では分かっているんです。でも、机に向かってガリガリ勉強するなんて何年もやってこなかったから、体が拒絶反応を起こしてしまって。科目数も多すぎるし、どこから手を付ければいいのか、完全に迷子です」


 翼の思いを聞いた進は、眼鏡の位置を直すと、低い声で、しかし明確な道標を示すように語り始めた。


「花咲さん。公務員試験の多くの科目を『真面目に一からすべて完璧にこなそう』と思ってはいけません。そんなことをすれば、本番までに時間がいくらあっても足りない。これは学問ではなく、制限時間内に合格点をむしり取る『戦略ゲーム』です」


 進は赤いペンを取ると、ノートの白紙のページに大きく三つの円を描いた。


「まずは、憲法、民法、行政法、経済原論、数的処理だけ学習です。他の科目は、今は一切見なくていいですよ」


翼の目が、わずかに光を取り戻した。


「たぶん、作詞作曲をする時、最初からすべての楽器の音を完璧に詰め込まないと思います。まずは核となるメロディとコードを決めるのではないでしょうか。勉強も同じです。主要科目の軸が一本通れば、あとはいくらでも付け足すことができるんです」


 進は立ち上がった。


「長く机に向かえなければ、15分でもいいです。15分集中して、5分休憩。また15分集中する。花咲さん自身の勉強のテンポを、今ここで作り上げることです」


 翼は思った。

 これは、県庁という新しいステージで歌うための、長大な組曲の制作なのだ。


「……分かりました、先生」


 平成23年、うだるような夏の足音が近づく神戸。

 花咲翼は、再びペンを強く握り直した。

 眠っていた有名私学の学力と、進から授けられたミニマムな戦略が火花を散らし、膨大な科目という名の巨大な壁に向かって、今、独自のビートを刻み始めるのだった。

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