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第1章 ミュージシャンは公務員になれるのか

【残響の神戸、不協和音の現実】


 平成二十三年、初夏。神戸元町にある地下のライブハウス。

 歪んだエレキギターの残響がコンクリートの壁に虚しく吸い込まれていく中、花咲翼はなさき つばさはステージの上で、まばらな拍手を浴びていた。

 客席にいるのは、身内のような常連客が数人のみ。

 照明の熱気とは裏腹に、翼の心は冷え切っていた。


 大学時代にバンドを結成し、音楽の熱に浮かされるようにして卒業後もソロのシンガーソングライターとして活動を続けてきた。

 作詞作曲をすべて自ら手がけ、自分の魂を削り出すようにして歌う。それが翼の矜持だった。

 しかし、現実は残酷だった。

 ライブが終わるや否や、ライブハウスのオーナーから溜息混じりに嫌味が飛ぶ。

「花咲くんさぁ、今日も売り上げがさっぱりだよ。音楽性が高いのは結構やけど、身内しか呼べんようじゃ困るんよね。もっとこう、ウケる曲書けんの?」


 楽屋のパイプ椅子に座り込み、ギターケースを見つめていた翼のもとに、大学時代のバンド仲間であり、今は自治体で働く友人が訪ねてきた。

 友人は、翼の苦境を察したように静かに口を開いた。


「翼、はっきり言うよ。君の曲はアーティスティックすぎて、万人受けしない。このまま音楽で食っていくなら、プライドを捨てて万人受けのポップス路線に切り替えるか、それとも音楽は趣味にして別の道を探すか……もう、決断したほうが良い」


 胸を突く言葉だった。しかし、翼には売れるために自分の信条を捻じ曲げ、薄っぺらな「書きたくない曲」を書く気には到底なれなかった。

 それは、音楽という表現に対する最大の背信行為のように思えたからだ。

「……切り替える気はない。でも、今さら普通の会社に就職なんて、この年齢のフリーターじゃ無理だろ」

 翼の自嘲気味な呟きに、友人は真剣な眼差しを返した。

「それなら、公務員はどうだ? 公務員試験なら、前職が何だろうと、職歴にどんな空白があろうと関係なく、筆記と面接の実力だけで採用される。翼のその頑固なまでのこだわりだって、別の形で活かせるかもしれない」


【 閉ざされた門扉、最後の選択肢】


 友人の言葉に一筋の希望を見出した翼は、数日後から神戸三宮にある大手公務員試験予備校の門を次々と叩いた。

 しかし、そこで待っていたのは、冷徹な「現実」の査定だった。


「年齢的には受験可能ですがねぇ……。失礼ですが、音楽活動しかしてこなかったとなると、面接で話せる『職歴』や『社会人経験』が白紙に等しい。うちに入学されても、合格を保証するのは極めて難しいです」

一般的なビジネスマナーも身についていないと思われますし、他校を当たられた方が……」


 大手予備校のパンフレットを抱え、三宮の雑踏に放り出された翼は、悔しさと情けない思いで唇を噛み締めた。

 民間企業だけでなく、公平であるはずの公務員の世界に挑むための予備校からさえも、自分の生きてきた二十代を「無価値な空白」として拒絶されたのだ。


(ここで断られたら、もう公務員も諦めよう。音楽も、人生も、全部潮時だ――)


 そう覚悟を決め、最後に辿り着いたのが、ビルのワンフロアにある、どこか古びた中規模の予備校だった。

 その日は、京都から「出張相談会」のために神戸校へ足を運んでいた専任講師・伊崎進が、相談ブースで腕を組んで待っていた。


【毒舌の救済、響き合う旋律】


「なるほど、他校では『音楽しかしてこない空白の職歴では、県庁は受からない』と言われたわけですか」


 翼の履歴書と、他校での顛末を聞いた進は、眉間の深い皺をさらに刻み込んだ。

 張り詰めた沈黙がブースに流れる。翼は「ここも駄目か」と席を立ちかけた。


 しかし、進の口から漏れたのは、他校の評価に対する、極めて上品で、しかし猛烈な「反対意見」だった。


「……たぶん、それは違います。型にハマった意見ですね。その予備校の担当者は、人を見る目がないかもしれません」


 進は低く、しかし驚くほど通る声で、静かに言葉を続けた。


「花咲さん。あなたがこれまでやってこられた作詞作曲、そしてライブハウスでの演奏。それは『空白』などでは断じてない。何もないゼロの状態から、自らの思考と言葉で一つの『作品』を創つくり、それを発信し、心を揺さぶってきた。素晴らしい表現力です」


「表現、力……ですか?」


「そうです」

 進の鋭い眼差しが、翼の瞳を射抜く。

「あなたには、自らの信念を曲げない、強い芯があると感じます。県庁が求めているのは、自分の頭で考え、自分の言葉で政策を立案し、県民に届ける力を持った人材です。あなたのその『こだわり』は、行政の企画や広報、政策立案の現場で、絶対に活かせます」


 進は眉間の皺をふっと和らげると、ペンをトントンと机に叩いた。


「あなたが本気でその『こだわり』を県民のために活かす覚悟があるなら、私はあなたを全力で応援します。花咲さん、あなたの音楽を、今度は行政という巨大なステージで、万人に向けて響かせてみませんか?」


 その瞬間、翼の耳の奥で、久しく忘れていた美しいコード進行がジャランと鳴り響いた気がした。

 自分の生きてきた軌跡を、これほどまでに解釈し、価値を見出してくれた大人は初めてだった。


「……お願いします。伊崎先生」


 平成23年、初夏。震災の傷跡から力強く復興へと歩む兵庫の地で、売れないミュージシャン・花咲翼の、人生を変える新しい協奏曲が、静かに幕を開けた。


(第一章・完)

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