8.天才姉妹の工房
それから、数年が経った。
海を越えたソレイア共和国の商業都市には、新しい魔導刺繍の工房が生まれていた。
クララとエミリアの姉妹が経営する、小さな工房だった。
二人はソレイアの職人ギルドの支援を受け、最初は共同工房の一角を借りて仕事を始めた。言葉や商習慣の違いに戸惑うことも多かったが、クララの技術はすぐに評価され、エミリアも少しずつ魔導刺繍の腕を磨いていった。
やがて二人は、独立した工房を構えるようになった。
クララは魔導刺繍の技術開発を担当し、エミリアは服飾デザインと商品企画を担当した。もちろん、エミリア自身も魔導刺繍を制作する。クララにはまだ遠く及ばないものの、いくつもの新しい図案を独自に考案できるようになっていた。
彼女には、姉にはない優れた感覚があった。社交界で過ごした経験から、人々がどのような服を求め、何を美しいと感じるのかをよく理解していたのである。
クララが開発した新しい魔導刺繍を、エミリアが美しい商品に仕立てる。エミリアが考案した服飾デザインに合わせて、クララが必要な魔法の仕組みを作る。
二人で考えた商品は、従来の魔導服飾品とはまったく違っていた。
周囲の気温に応じて保温性が変わる外套。衝撃を受けた瞬間だけ硬くなる防護服。歩く人の動作を補助する靴。そして、着用者の動きに合わせて、美しい光の花を咲かせるドレス。
それらは魔導刺繍の可能性を大きく広げるものだった。
工房の評判は、またたく間に広がった。やがて人々は、二人を天才魔導刺繍師の姉妹と呼ぶようになった。
ただし、今度は偽りではなかった。
二人が作ったものを、二人で作ったものとして販売しているだけだった。
*
一方、ヴァルテン商会は、すでに存在しなかった。
クララとエミリアの失踪後、商会は急速に傾いていった。両親は自分たちで魔導刺繍を作ろうとしたが、技術は古く、現在の流行に対応できなかった。ほかの職人を雇おうとしても、クララが一人で制作していた商品を再現するには、何人もの熟練職人が必要だった。
しかも、当然ながら報酬を支払わなければならない。
父親は、その金額に愕然とした。自分たちがこれまで、どれほど安く商品を製造していたのかを、初めて理解したのである。
それでも父親は、商会の規模を縮小しようとはしなかった。エミリアが制作したという宣伝を訂正することもなかった。これまでどおりの評判と利益を維持しようとして、無理な注文を受け続けた。
さらに、娘たちの捜索にも多額の金を費やした。
国内の職人ギルドを調べ、港を調べ、船を調べ、外国の取引先にも問い合わせた。しかし、娘たちがどこにいるのかは分からなかった。
実際には、姉妹は海の向こうで生活を始めていた。しかし、ソレイア共和国の職人ギルドは、ヴァルテン商会の父親が娘たちを連れ戻そうとしている事情を把握しており、本人たちの同意なく情報を開示することはなかった。
もちろん、外国へ渡っただけで追跡が不可能になるわけではない。しかし、海を越えた先では、父親の商業上の人脈も、家長としての権限も、以前のようには通用しなかった。娘たちはすでに保護を受け、自分たちの意思で生活している。少なくとも、父親が命じるだけで連れ戻せる存在ではなくなっていた。
それでも父親は、諦めなかった。
娘たちを取り戻せば、すべて解決する。
そう考え続けていたからである。
しかし、その間にも商会の経営は悪化した。納期を守れなくなり、商品の品質も落ちた。職人を雇っても、父親は彼らの専門的な判断を尊重せず、古い技術に固執した。母親も、流行の変化を認めようとはしなかった。
やがて、取引先から制作者についての説明を求められるようになった。エミリアが天才魔導刺繍師だという宣伝を続けているのに、新作がまったく出てこない。本人による制作実演を求められても、応じられない。
父親は言い訳を重ねた。
エミリアは体調を崩している。新しい技術の研究に専念している。しばらく作品の発表を控えている。
しかし、どれほど取り繕っても、商品は完成しなかった。
ついには、制作者を偽っていたことを疑う取引先が現れ、商会の信用は大きく損なわれた。契約違反による賠償も重なり、資金繰りは行き詰まった。
父親は最後まで、娘たちを恨んでいた。
「あの恩知らずどもが、家を出ていかなければ!」
母親も同じだった。
「私たちが、どれほど大切に育ててやったと思っているの!」
しかし、娘たちはもう、両親のもとにはいなかった。
商会は多額の負債を抱え、とうとう廃業した。
*
ソレイアの工房にも、ヴァルテン商会が廃業したという知らせは届いていた。
クララは、ギルドから届いた手紙を読み、少し考えてから机に置いた。
「……そうなんだ」
エミリアは、姉の顔を見た。
「……お父様たち、もう私たちを捜さないかな」
「……どうだろうね」
クララは首を傾げた。
「分からないけど、もう私たちの暮らしを決めさせるつもりはないよ」
エミリアは、しばらく黙っていた。そして、小さく頷いた。
「……うん」
クララは手紙を片付けた。
「じゃあ、お茶にしようか」
「……お姉ちゃん、さっき飲んだばかりじゃない?」
「お茶は何回飲んでもいいんだよ」
「もう!」
エミリアは呆れたように笑った。
*
「お姉ちゃん! 起きて!」
ある日の昼。エミリアは、工房の奥にある寝室の扉を叩いた。
「……んー」
「もうお昼よ!」
「……あと五分」
「さっきも同じこと言ってた!」
「……じゃあ、あと十分」
「増えてる!」
エミリアは、ため息をついた。
クララは、独立してからすっかりぐうたらになっていた。朝はなかなか起きてこない。仕事がない日は昼まで眠り、起きたらお菓子を食べ、気が向いたら研究を始める。
しかし、ひとたび面白いアイデアを思いつくと、恐ろしいほどの集中力を発揮した。何日も考えていた問題を突然解決することもあるし、誰も見たことのない魔導刺繍を数時間で完成させてしまうこともある。
そして、また寝る。
エミリアには、そんな姉が不思議で仕方なかった。あれほど働き者だった姉が、今では工房で一番の怠け者なのである。
「お姉ちゃん! 新しい図案ができたの!」
「……あとで見る」
「すごく綺麗にできたんだから!」
「……明日見る」
「明日じゃ遅い!」
「……じゃあ、明後日」
「もう!」
エミリアは、とうとう寝室に入った。クララは毛布にくるまっていたが、妹が持ってきた刺繍を見せられると、ようやく起き上がった。
「……何?」
「新しい刺繍ができたの!」
エミリアが広げた布には、美しい花の刺繍が施されていた。花びらは淡い金色に輝き、光の粒がゆっくりと舞い上がっている。
クララは、眠そうな目でそれを眺めた。
「……ああ、綺麗だね」
「でしょ!」
「……でも、ここ、ちょっと魔力が無駄になってる」
「えっ?」
クララは妹から針を借り、刺繍の一部を少しだけ縫い直した。そして魔力を流すと、花びらから舞い上がる光の粒が、さらに細かく、美しくなった。
「……すごい! お姉ちゃん、どうして分かったの!?」
「……なんとなく」
「私、三日も悩んでたのに!」
クララは、妹の顔を見た。
「……三日?」
「うん!」
「……ちゃんと寝てる?」
エミリアは目を逸らした。
「……寝てるよ」
「何時間?」
「…………」
クララは、ため息をついた。
「……エミリア」
「……はい」
「今日はもうおしまい」
「ええっ!?」
クララは妹の手元を見た。指先が赤くなっている。どうやら、ずいぶん長い間針を握っていたらしい。
「……また手が荒れてるじゃない。少し休みなさい」
エミリアは、一瞬、身体をこわばらせた。昔、父親に言われた言葉を思い出したのだ。
手を荒らすな。針を持つな。お前は美しく着飾っていればいい。
しかし、クララは続けた。
「明日またやればいいでしょ。刺繍道具は逃げないんだから」
そう言って、針を妹に返した。
「あなたの道具なんだし」
エミリアは、しばらく姉を見つめていた。そして、小さく笑った。
「……うん」
「今日は何か美味しいもの食べに行こうよ」
「……お姉ちゃん、また食べるの?」
「だって、お腹すいたし」
「さっきお菓子食べてたじゃない」
「お菓子はご飯じゃないよ」
エミリアは呆れたように笑い、刺繍道具を自分の机に置いた。
「……じゃあ、行こうか」
「うん!」
クララは、嬉しそうに立ち上がった。
*
工房の入口には、小さな看板が掛けられていた。
そこには、二人の名前が並んでいる。
クララ・ヴァルテン。
エミリア・ヴァルテン。
そして、その下には、二人で考えた小さな花の模様が刺繍されていた。花びらは、時折ゆっくりと色を変える。
幼い頃、二人で初めて作った魔導刺繍と同じ花だった。
ただし、今度は二人が一緒に縫ったものだった。クララが魔法の仕組みを考え、エミリアが色と形を決め、二人で針を動かした。
その花は、どちらか一人の作品ではなかった。
二人の作品だった。
工房を出た姉妹は、楽しそうに街を歩いていった。
姉は、今日もできるだけ働きたくなかった。妹は、今日もできるだけ魔導刺繍をしていたかった。二人の意見は、あまり一致しなかった。
それでも、何も困らなかった。
働きたいときには働く。休みたいときには休む。何を作るかも、誰と作るかも、自分たちで決める。
そんな当たり前のことができる毎日を、二人はようやく手に入れたのだった。




