7.海を渡る兄弟
翌朝、ヴァルテン商会では大騒ぎが起こっていた。
エミリアがいない。昨夜まで部屋にいたはずなのに、誰も出ていくところを見ていなかった。窓も扉も壊されておらず、荷物の大半も残っている。
「クララだ! あの娘が何かしたに違いない!」
父親は激怒し、使用人を捜索に向かわせた。街の門番にも問い合わせたが、二人の少女が通ったという記録はない。
当然だった。二人は青年と少年の姿で街を出ていたのだから。
父親は、娘たちが何者かに連れ去られた可能性もあると考えた。エミリアは商会の看板娘であり、その名声を利用しようとする者がいてもおかしくない。
しかし、誰かが押し入った形跡もなかった。エミリアの部屋には争った様子がなく、何より本人が大切にしていた小さな刺繍枠がなくなっていた。
父親は、国内の職人ギルドに次々と問い合わせた。すでにクララが魔導刺繍師として活動していると疑っていたので、妹もそちらへ向かったのではないかと考えたのである。
だが、ギルドは個人情報を開示しなかった。
父親は、娘二人が失踪したことを訴え、捜索に金を惜しまなかった。商会の取引先にも協力を求め、街道や港を調べさせた。
しかし、娘たちの行方は分からなかった。
*
一方、クララとエミリアは、リーベルへ戻っていた。
クララが準備していた隠れ家は、ギルドが管理する職人用の宿泊施設だった。そこには外部の者が自由に出入りできず、滞在者の情報も保護されていた。
エミリアは、ギルドの女性職員と保護担当官に、自分の意思で家を出たことを説明した。
魔導刺繍を学ぶことを禁じられていたこと。姉が失踪したあと、突然仕事を強制されるようになったこと。自分で作っていない商品を自分の作品として宣伝するよう命じられていたこと。
そして、これからは姉と一緒に暮らし、自分の意思で魔導刺繍を学びたいということ。
職員は、エミリアの言葉を記録した。クララも、妹を連れ出した経緯を説明した。
保護担当官は、二人の意思を確認したうえで、エミリアを両親のもとへ戻さずに保護する手続きを開始した。
もちろん、これですべてが終わるわけではない。エミリアはまだ十五歳であり、国外へ渡るには保護者に代わって責任を負う者も必要だった。
しかし、その点についてはクララがすでに相談していた。リーベルの職人ギルドとソレイア共和国のギルドは協定を結んでおり、保護された若い職人を受け入れる制度が整っていた。ソレイア側のギルドも、クララの技術と二人の事情を確認し、受け入れを承諾していたのである。
あとは、必要な書類が整うのを待つだけだった。
クララは、妹に説明した。
「だから、もう少ししたら船に乗るよ」
「……船?」
「うん。海の向こうの国に行くの」
「……そんなに遠く?」
「そう。お父様たちが簡単には来られないところ」
エミリアは、少し不安そうな顔をした。
「……大丈夫かな」
「分からないこともあるけど、向こうのギルドが手伝ってくれることになってる。仕事もできるし、住むところも探してもらえるって」
「……お姉ちゃん、そこまで準備してたの?」
「うん。あなたを迎えに行くって決めてたから」
エミリアは、しばらく姉を見つめていた。
「……ありがとう」
「いいよ。私がそうしたかっただけだし」
クララは笑った。
*
数日後、二人はリーベルの港にいた。
外洋を越えてソレイア共和国へ向かう定期船が、出港の準備を進めている。帆を張った大きな船で、海が穏やかでも到着まで十日以上かかるという。
クララとエミリアは、再び青年と少年の姿になっていた。
ただし、渡航書類は本名で作成されている。職人ギルドの職員が立ち会い、出国の担当官には本人確認を受けた。変身の魔導刺繍についてもあらかじめ申告しており、変装は追手の目を欺くためのものだった。
確認を終えると、二人は再び兄弟の姿になって船へ乗り込んだ。
港には大勢の人がいた。荷物を運ぶ人夫、出航を待つ乗客、見送りに来た家族。商人らしい男たちも、何人も歩いていた。
クララは、周囲を見回した。
どこかに父親の手の者がいるかもしれない。
しかし、彼らが捜しているのは、十代の姉妹二人だった。青年と少年の兄弟に気を留める者はいなかった。
やがて船が動き始めた。
岸壁がゆっくりと遠ざかっていく。
エミリアは、甲板から港を眺めていた。
「……本当に、行くんだね」
「うん」
「……もう、お父様たちのところには戻らないんだね」
「私は戻らないよ。あなたは?」
「……私も、戻らない」
エミリアは、しばらく港を見つめていた。
生まれ育った国を離れる。友人たちとも、もう簡単には会えない。社交界での暮らしにも、楽しいことはあった。
しかし、戻りたいとは思わなかった。
クララは、妹の隣に立った。
「……寂しい?」
「……ちょっと」
「そっか」
「でも、楽しみでもあるの」
「何が?」
「新しい国。新しい街。それに……」
エミリアは、姉を見上げた。
「……お姉ちゃんと一緒に、魔導刺繍ができること」
クララは笑った。
「うん。いっぱい作ろうね」
「……うん!」
船は港を離れ、広い海へ出ていった。
*
出港から三日目。
エミリアは、船室で姉に尋ねた。
「……お姉ちゃん、前に言ってた、前世っていうのは何?」
クララは、少し考えた。
「うーん。信じてもらえるか分からないんだけどね」
そして、日本という国で暮らしていた記憶について話した。魔法のない世界。代わりに、さまざまな機械や技術が発達していた世界。そこで自分は、プログラムというものを作る仕事をしていた。
エミリアは、目を輝かせた。
「……じゃあ、お姉ちゃんが急にすごい魔導刺繍を作れるようになったのは、そのおかげなの?」
「うーん、それもあるけど……」
クララは少し考えた。
「前世の知識だけじゃ、魔導刺繍は作れなかったと思う。今までずっと刺繍をしてきたから、ようやく思いついたんだよ」
「……そっか」
エミリアは、自分の手を見た。針仕事でできた小さな傷が、まだ残っている。
「……私も、お姉ちゃんみたいになれるかな」
「なれるかどうかは分からないけど、練習すれば今よりずっと上手になるよ」
「……うん!」
エミリアは嬉しそうに頷いた。
そして、荷物から小さな刺繍枠を取り出した。あの夜、屋敷から持ってきたものである。
そこには、不格好な花の刺繍があった。
「……これ、もうちょっと綺麗にしたいんだけど」
「うん。じゃあ、見せて」
クララは、妹の隣に座った。
花びらの縫い目を確認し、魔力の流れを調べる。そして、どこを直せばよいのかを説明した。
エミリアは、夢中になって聞いていた。
「……なるほど。じゃあ、ここをこうすれば……」
「そうそう。それで、こっちにも魔力を流して……」
エミリアが針を動かす。
少しずつ、花の形が整っていく。
やがて、小さな花が淡く光った。
「……できた!」
エミリアは、嬉しそうに声を上げた。
クララも笑った。
「うん。綺麗にできたね」
エミリアは、しばらくその花を見つめていた。
「……私が作った」
「うん」
「……私が、自分で作ったんだ」
クララは、妹の頭をそっと撫でた。
窓の外では、青い海がどこまでも広がっていた。
*
その頃、ヴァルテン商会の父親は、娘たちがリーベルの港から船に乗った可能性に気づき始めていた。
しかし、港には毎日のように船が出入りしている。しかも、娘たちは変身の魔導刺繍によって姿を変えていた。街道や宿屋での聞き込みも、港の目撃情報も、ほとんど役に立たなかった。
父親は、リーベルの職人ギルドへ再び押しかけた。しかし、ギルドは保護対象者の行方について、何も答えなかった。
娘たちが無事であることは確認されている。それ以上の情報は、本人の許可なく開示できない。
父親は激怒した。
「私は父親なんだぞ! 娘たちを取り戻す権利があるはずだ!」
しかし、どれほど怒鳴っても、答えは変わらなかった。
父親は、さらに金を使って捜索を続けることにした。商会の取引先に協力を求め、情報屋を雇い、外国へ向かった船についても調べさせた。
その間にも、商会の注文は溜まり続けていた。
父親は、それを見て舌打ちした。
「クララさえ帰ってくれば、こんな問題はすぐに片付くのに……」
そして、新しい職人を雇うための費用を、また一部、娘たちの捜索に回した。
彼にとって、娘たちはいつか必ず取り戻せるものだった。
だからこそ、娘たちがいないまま商会を経営するという選択を、最後まで真剣に考えようとしなかったのである。




