4.自由な魔導刺繍師
屋敷を出たクララは、最初に思った。
お腹がすいた。
それから、猛烈に眠かった。
当然である。高熱から回復したばかりなのに、何日もかけて魔導刺繍の研究を続け、さらに深夜の屋敷を歩き回ってきたのだ。
クララは、まず街道沿いの小さな宿に入った。母から昔もらった銀の髪飾りを売ると、数日分の宿代と食費になった。久しぶりに誰からも急かされずに食事をし、好きなだけ眠った。翌日も眠った。その翌日も、昼近くまで眠った。
「……ああ、幸せ」
クララは宿のベッドで毛布にくるまりながら呟いた。前世でも、ここまで自由に眠った記憶はあまりなかった。
しかし、いつまでも寝ているわけにはいかない。妹を迎えに行くためには、お金が必要だった。
クララは、まず港湾都市リーベルへ向かうことにした。王国でも有数の商業都市で、国内外の職人や商人が集まる場所である。魔導刺繍師として仕事を探すなら、都合がよかった。
何より、リーベルには大きな港があった。
実家から遠く離れた場所に行くには、外国へ渡ってしまうのが一番だろう。ヴァルテン商会は国内に広い販路を持っている。職人ギルドが守ってくれるとしても、国内に留まる限り、両親の人脈がどこまで及ぶか分からない。
海を越えた先には、職人の自治権が強いソレイア共和国がある。外国から職人を受け入れる制度も整っており、ヴァルテン商会の取引先もほとんどない。
クララは、妹を連れてそこへ渡るつもりだった。
*
リーベルに到着したクララは、職人ギルドを訪れた。
ただし、いきなり窓口へ行ったわけではない。まず魔導刺繍で容貌を変え、街の様子を調べた。父親がすでに捜索を始めているかもしれないからだ。
ギルドの窓口では、事情を説明し、責任者との面談を求めた。十六歳以上の者は、職人ギルドに登録して独立できる。しかし、登録には本人確認が必要だった。
クララは個室へ案内され、変身を解除して自分の身元を明かした。
そして、両親のもとでどのような扱いを受けていたのかを説明した。長時間働かされていたこと。報酬を受け取っていなかったこと。作品を妹の名義で販売されていたこと。外出を禁じられ、工房に鍵をかけられていたこと。
職員は最後まで黙って聞いていた。そして、静かに言った。
「……あなた、それは家に帰らない方がいいわね」
「ですよね」
クララは、思わず深く頷いた。自分が異常だと感じたことを、他人にも異常だと言ってもらえる。それだけで、少し肩の力が抜けた。
ギルドには、家族や雇い主から不当な労働を強制されている職人を保護する制度があった。登録者の個人情報は、家族であっても本人の許可なく開示されない。クララは正式な保護を申請し、両親に居場所を知らせないよう求めた。
続いて、持参した魔導刺繍を見せた。周囲の温度に応じて保温性が変わる手袋だった。
「……これを、あなたが作ったの?」
「はい」
「製作には、どのくらいかかったの?」
「半日くらいです」
「……半日?」
鑑定係は何度も手袋を裏返し、追加の職人を呼んだ。クララが仕組みを説明すると、さらにギルドの責任者までやってきた。
従来の防寒用魔導刺繍は、決められた量の熱を発生させるものだった。それに対してクララの手袋は、周囲の温度を調べ、必要な場合だけ保温効果を高める。使いやすいうえ、魔力の消費も少ない。
「……これを売るつもりなの?」
「はい。できれば仕事も紹介してほしいんですけど」
「仕事? もちろん紹介するよ!」
クララは、その場で魔導刺繍師として登録された。両親に居場所を知られたくないという事情を考慮し、商売には屋号を使い、依頼人との連絡もギルドが仲介してくれることになった。
最初の報酬を受け取ったとき、クララは金貨の重さに呆然とした。
「……これ、一日分?」
「材料費を引けばね。あなたの技術なら、もっと高い値段でも注文が来ると思うわよ」
「……魔導刺繍って、すごい」
自分は今まで、何をしていたのだろう。あれだけ働いて、一銭ももらっていなかった。しかも、自分が作った商品の売上で、家族は贅沢な暮らしをしていたのだ。
クララは、改めて実家へ帰る気をなくした。
*
クララは、ギルドを通じて仕事を受けるようになった。防寒手袋、軽量化した旅行鞄、雨を弾く外套。いずれも従来の魔導刺繍とは少し違う工夫が施されており、すぐに評判になった。
ただし、クララは仕事を増やしすぎないようにした。以前のように朝から晩まで針を動かす生活には、もう戻りたくなかったのである。
空いた時間は研究に充てた。もっとも、半分くらいは寝ていた。自分で仕事量を決められるというのは、なんと素晴らしいことだろう。
研究の中心は、身体変化の魔導刺繍だった。
年齢や顔の印象を変える技術は、すでに実用化できている。しかし、それだけでは身長や体格が変わらない。小柄な十六歳の少女という身体的な特徴まで隠すには、もっと大きな変化が必要だった。
そこでクララは、既存の体形補整の図案をさらに分解し、筋肉や骨格に作用する部分を独立させた。背丈を少し伸ばす。肩幅を広くする。腕や脚の長さを変える。
これらは、顔の印象を変えるよりもはるかに難しかった。身体の各部を別々に変えると、関節がうまく動かなくなったり、重心がずれて転んだりするからだ。
クララは、身体全体の形を一定の条件に保つ制御を組み込み、少しずつ調整した。最初は歩くだけでぎこちなかったが、やがて自然に動けるようになった。
鏡の中には、背の高い大人の女性が立っていた。
「……おお。これなら完全に別人だ」
クララは満足した。しかし、研究を進めるうちに、さらに一つの可能性に気づいた。
年齢を変えられる。顔を変えられる。身長も体格も変えられる。
ならば、性別はどうだろう。
身体変化の魔導刺繍は、生体の組織に作用する。筋肉や骨格だけでなく、身体のさまざまな部位を変化させることができる。性別を変えるには、外見だけでなく、声や身体の内部構造まで整合させなければならないため、制御は格段に複雑になる。
クララは慎重に試作を始めた。最初は声だけを低くした。次に顔の輪郭と肩幅を変えた。身体の各部を一つずつ調整し、最後に全体の変化を連動させた。
失敗も多かった。声だけが不自然に低くなったり、肩幅が広くなりすぎたり、変化を解除したあとに筋肉痛が残ったりした。魔力が不足すると危険なため、安全に元の身体へ戻るための制御も組み込んだ。
それでも、ついに完成した。
クララは魔導刺繍を施した服を着て、鏡の前に立った。
魔力を流す。
身体つきが変わる。肩幅が広がり、背が伸び、顔立ちが変化する。声も低くなった。
鏡の中には、見知らぬ青年が立っていた。
「……あー、あー」
低い声が響く。
「……おお」
クララは感心した。そして鏡の前で何度かポーズを取ってみた。
「……ちょっと楽しいな、これ」
こうして、クララは男性へ変身する魔導刺繍を完成させた。
魔力の補充は必要だが、きちんと管理すれば長時間の変身も維持できる。姿だけでなく、声や体格まで変わるため、以前の彼女を知る人間が見ても、簡単には気づかないだろう。
クララは、鏡の中の青年に名前をつけた。
「……ルカ、かな」
それは正式な職人名でも、戸籍上の名前でもなかった。ただ、変身している間に名乗るための、ありふれた偽名だった。




