3.妹の秘密
深夜、クララは魔導刺繍を施した外套を身につけ、そっと工房を抜け出した。
廊下は薄暗い。壁には魔導灯が並んでいたが、夜間は光量を落としている。クララは外套に魔力を流し、身体の輪郭を周囲の景色に溶け込ませた。完全に姿が消えたわけではないが、暗がりでは十分に目立たなくなる。靴の刺繍も作動させると、足音がほとんどしなくなった。
「……おお」
思わず声を漏らして、慌てて口を押さえる。足音を消す魔法は、声まで消してくれるわけではない。
途中で見張りの使用人が現れたが、壁際に身を寄せて動きを止めると、そのまま通り過ぎていった。クララは心の中で歓声を上げた。うまくいった。これなら屋敷の外まで行けるかもしれない。
しかし、妹エミリアの部屋の前を通りかかったとき、クララは足を止めた。
「またこんなことをやっているのか!」
父親の怒鳴り声だった。
扉が少し開いている。クララが隙間から覗くと、父親とエミリアが言い争っていた。机の上には刺繍道具と、何枚もの失敗作が広げられている。
「お前にはお前の仕事があるだろう!」
「もう嫌なの! 自分で作ってもいないものを、自分が作ったって言うの、もう嫌! 私だって、ちゃんと作れるようになりたい!」
エミリアは涙を流していた。
「私だって、お姉ちゃんみたいに作りたい! お姉ちゃんに教えてもらいたい!」
クララは息を呑んだ。妹が、自分に魔導刺繍を教わりたがっている?
父親は不愉快そうに顔をしかめ、エミリアの手をつかんだ。指先には、慣れない針仕事でできた小さな傷がいくつもあった。
「見ろ、この荒れた手を! お前は商会の顔なんだぞ! 夜会でその手を見られたらどうする!」
「……でも」
「お前は手を綺麗にして、美しい服を着て、客の相手をしていればいいんだ! 魔導刺繍なんぞ、クララにやらせておけ!」
父親は、机の上の刺繍道具を取り上げた。エミリアが泣きながら返してほしいと訴えると、今度は諭すように言った。
「何度も言っただろう。クララはお前に教えたがっていない。自分の仕事を奪われると思っているんだ。いい加減、諦めなさい」
クララは、廊下で立ち尽くしていた。
そんなことは一度も言っていない。というかそもそも、エミリアが教わりたがっていることすら知らなかった。
幼い頃、二人は一緒に魔導刺繍をしていた。まだ小さかったエミリアは針を持つのが苦手で、よく糸を絡ませていた。クララがその糸をほどいてやると、妹は嬉しそうに笑った。
ある日、二人で小さな花の刺繍を作ったことがあった。花びらの色が一枚ずつ変わる、簡単な魔導刺繍だった。エミリアが色を選び、クララが縫った。完成した花が光ったとき、二人は大喜びした。
また一緒に作ろうね。そう約束していたのに。
父親は刺繍道具を持ち、部屋を出てきた。クララは慌てて壁際に身を寄せる。父親は彼女に気づかず、廊下を歩いていった。
部屋の中から、すすり泣く声が聞こえる。
クララは唇を噛んだ。妹は、自分を嫌っていたのではなかった。自分と同じように、両親の都合で人生を決められていたのだ。
*
クララは、その場で妹の部屋に飛び込もうとした。しかし、足を止めた。
自分はまだ、屋敷から逃げ出せるかどうかも分からない。外套は一着しかなく、逃亡先の住居も仕事もお金もない。今すぐ妹を連れ出したところで、二人で安全に暮らせるだろうか。それに、妹が本当に家を出たいと思っているかどうかも、確かめなければならない。
まず自分が逃げる。安全な場所を見つける。二人で暮らせるだけのお金を稼ぐ。それから、もう一度戻ってこよう。
妹に手紙を残すことも考えたが、やめた。両親に見つかれば、エミリアが逃亡に協力したと疑われるかもしれない。
必ず、迎えに来る。
その夜、ヴァルテン商会の長女クララは、誰にも気づかれることなく屋敷を脱出した。




