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2.魔導刺繍とプログラミング

 問題は、どうやって逃げるかだった。


 工房の扉には鍵がかかっている。屋敷には使用人がおり、夜間は見張りが巡回している。外へ出ることを許されていないクララが、正面から堂々と出ていくのは難しい。


 しかし、クララには魔導刺繍があった。しかも、前世の記憶を取り戻した今、彼女には試してみたいことが山ほどあった。


「……これ、プログラムみたいなものなんじゃない?」


 机の上の図案を眺めながら、クララは呟いた。


 魔導刺繍には、さまざまな種類がある。光を発生させる図案。布の色を変える図案。熱を発生させる図案。衝撃を和らげる図案。それぞれの図案には決まった形があり、刺繍師はその形を覚えて正確に縫うことで、魔法の効果を発揮させる。


 もちろん、図案を改良する職人もいる。クララ自身、これまで数え切れないほどの改良を行ってきた。しかし、魔導刺繍師たちは基本的に、一つの図案を一つの完成した魔法として扱っていた。


 クララは、そこに疑問を感じた。


 例えば、周囲の明るさに応じて光量が変わる刺繍がある。これは、周囲の明るさを調べる部分と、光を発生させる部分と、その二つを結びつける部分から成り立っているはずだ。


 ならば、明るさを調べる部分だけを取り出して、別の魔法に利用することもできるのではないか。


 クララは紙に図を描いた。魔力を受け取る。周囲の状態を調べる。条件に応じて動作を選ぶ。魔法を発動する。その結果を調べ、必要に応じて調整する。


「入力、条件分岐、出力、フィードバック……」


 懐かしい言葉が次々に浮かんできた。クララは図案を小さな機能に分解し始めた。


 最初はうまくいかなかった。魔力が途中で漏れたり、複数の図案が干渉したりした。糸の交差する場所で思わぬ効果が発生し、布が焦げたこともある。


 しかし、クララには十年以上の経験があった。魔力がどのように流れ、どこで不安定になるのか、指先の感覚で理解している。


 前世の知識が突然魔力を増やしたわけではない。ただ、今までとは違う方法で、魔導刺繍を設計できるようになったのだ。


 やがて、彼女は小さな布切れを完成させた。机の上に置き、魔力を流す。布の色が、机の木目と同じ色に変わった。


「……おお」


 クララは布を持ち上げた。布の表面には、背後の景色に似た模様が浮かんでいる。従来の色変化の図案に、周囲の光と色を調べる機能を組み合わせたものだった。


 まだ完璧ではない。見る角度によって模様がずれるし、動けば周囲との違いが目立つ。しかし、暗い場所でじっとしていれば、かなり見つかりにくくなるはずだった。


「……これ、もう少し改良したら光学迷彩になるな」


 クララは、久しぶりに楽しくなってきた。


*


 それから数日、クララは表向き注文品の制作を続けながら、密かに新しい図案を試作した。


 工房には、幸いにも材料だけは豊富にあった。父親は納期にはうるさかったが、クララが必要だと言う材料については、あまり細かく確認しなかった。注文品を作るためには、材料を惜しんでいられなかったからである。


 クララは余った糸と布を使い、いくつもの小さな魔導具を完成させた。


 音を検知し、それを打ち消す振動を発生させる刺繍。完全な無音にはできないが、靴底に取り付ければ足音をかなり小さくできる。衝撃を受けた瞬間だけ布の繊維を硬くする刺繍。普段は柔らかいままなので、身につけても動きを妨げない。細い糸を魔力によって縮ませる刺繍。小さな金具を動かす程度なら十分な力が出る。


 それらを一つの外套と靴に組み込んだ。


「……なんか、泥棒みたいな装備になっちゃった」


 しかし、今の自分には必要なものだった。実際、鍵をかけられた部屋から逃げるのだから、普通の方法ではどうにもならない。


 さらに、クララは別の技術にも手をつけた。


 魔導刺繍には、着用者の容貌を美しく見せるための技術が存在する。肌の張りを整えたり、髪色を変えたり、顔の陰影を調整したりするもので、貴族の婦人たちに人気があった。魔法によって実際に身体の表面をわずかに変化させるため、化粧より自然に見える。


 クララは、その図案を改良した。


 まず、目元に皺を作り、頬を少しこけさせ、髪の色を変える。鏡の中には、二十代後半ほどに見える自分がいた。


「……おお。年齢詐称だ」


 魔力を止めると、いつもの十六歳の顔に戻る。


 クララは、さらに試してみた。目の形を少し変える。鼻筋を整える。頬の輪郭を変える。こうした変化は、年齢を変えて見せるよりもずっと難しかった。複数の部位を同時に変えなければ、顔全体の印象が不自然になってしまうからだ。


 しかし、何度も試作を繰り返すうちに、見知らぬ女性の顔を作れるようになった。


「……すごい。これなら街を歩いても分からないかも」


 もっとも、背丈や体格は変わらない。服を脱げば元のクララだし、声もそのままだ。父親や使用人と近くで話せば、気づかれる可能性がある。


 それでも、逃亡には十分役立つはずだった。


*


 クララは、工房の扉に近づいた。薄い布に刺繍した細い糸を、扉と枠の隙間に差し込む。魔力を流すと糸が縮み、錠の内部にある小さな金具を引いた。


 かちり。


 扉が開いた。


「……開いちゃった」


 クララは、しばらく扉を見つめた。そして、小さく笑った。


「……これ、すごくない?」


 誰もいない工房で、一人で感動してしまった。もっとも、扉が開いただけでは脱出成功とは言えない。屋敷の中には見張りがいるし、改良した魔導刺繍が実際にどこまで使えるかも分からない。


 そこでクララは、夜を待つことにした。

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