1.天才少女の魔導刺繍
ヴァルテン商会の次女エミリアは、自ら制作したという魔導刺繍の衣装を身にまとい、その美貌と才能で社交界の注目を集める天才少女だった。
彼女が身につけるドレスは、歩くたびに裾から光の花びらが舞い上がった。手にしたバッグは周囲の光に合わせて色を変え、髪飾りには本物の宝石よりも美しい星々が瞬いていた。いずれも魔導刺繍と呼ばれる特殊な技術によって生み出されたもので、同じような品物を求める貴婦人たちがヴァルテン商会に注文を殺到させていた。
これらの魔導刺繍は、すべてエミリア自身が考案し、制作した作品だとされていた。しかも彼女は、まだ十五歳だった。
その評判は商会に莫大な利益をもたらした。エミリアが夜会で新作を披露すれば、翌日には注文が入り、彼女が新しい図案を発表したと聞けば、それを見るためだけに遠方から客が訪れた。
ヴァルテン商会の主人は、商人としてなかなかの才覚を持っていた。商品そのものの価値だけでなく、それを誰が作ったことにするかが売上を大きく左右すると理解していたのである。だから彼は、美しい次女エミリアを天才魔導刺繍師として売り出していた。
だが実際に魔導刺繍を作っていたのは、長女のクララだった。
*
「クララ! まだ完成しないのか!」
工房の扉が乱暴に開き、父親の声が響いた。
「あと少しです。最後の魔力調整が終われば……」
「昨日も同じことを言っていただろう! 明日の夜会に間に合わなかったらどうする!」
クララは針を持つ手を止めた。机の上には淡い銀色のドレスが広げられている。裾に刺繍された幾百もの小さな花には、それぞれ異なる魔法の働きが与えられていた。歩く速度に合わせて花が開き、周囲の明るさに応じて光量が変わる。複雑な魔力の流れを一つひとつ調整しなければ、花びらは美しく舞ってくれない。
「お父様、今回は以前のものよりずっと複雑な刺繍です。一日では……」
「言い訳は聞きたくない。エミリアが恥をかいたら、お前の責任だからな」
父親はそれだけ言って出ていった。クララは深くため息をつき、再び針を動かし始めた。
今年で十六歳になる彼女は、物心ついた頃から魔導刺繍を学んできた。父も母も、かつては優れた魔導刺繍師だった。糸に魔力を流し、縫い目によってその働きを変える技術を、クララは幼い頃から教わっていた。
妹のエミリアも同じだった。二人の魔力適性はほとんど同じで、幼い頃には競うように刺繍をしていたものだ。クララは細かな作業が得意で、エミリアは美しい色や形を考えるのが好きだった。姉が魔法の仕組みを考え、妹が花びらの色を選ぶ。そんなふうに、二人で一つの作品を作ることも多かった。
しかし、姉妹が成長するにつれて、両親は二人に別々の役割を与えるようになった。
クララは工房で商品を作る役。エミリアは社交界で商品を披露する役。
両親自身の魔導刺繍は、すでに流行から取り残されつつあった。彼らが得意とするのは、決められた形に光を灯したり、布の色を変えたりする昔ながらの図案だった。一方、クララはそれらを組み合わせ、新しい表現を次々に考案していた。
父親は、その才能を商売に利用した。初めはエミリアが身につける商品をクララが作るだけだった。やがてエミリア自身が制作したことになり、ついには商会のすべての新作が、天才少女エミリアの作品として売られるようになった。
クララが社交界に出ることは許されなくなった。妹と会う機会も、ほとんどなくなった。
「エミリアはお前のことを恥ずかしいと思っているのよ。あの子の評判を傷つけないよう、余計なことはしないでちょうだい」
母親には何度もそう言われた。クララは、昔はあんなに仲がよかったのに、と寂しく思っていた。
しかし、だからといって魔導刺繍をやめるわけにはいかなかった。商会には大量の注文があり、父親はその利益で家族を養っている。自分が仕事をやめれば、家族は困ってしまう。
それに、魔導刺繍そのものは好きだった。自分が考えた図案が思いどおりに動いたときは、何度経験しても嬉しい。
ただ、たまには休みたかった。
朝、好きな時間まで眠っていたい。好きなものを食べて、散歩をして、気が向いたら刺繍をする。そんな生活に憧れていた。
しかし、今のクララには、一日休むことすら許されていなかった。
*
その夜、クララはついに倒れた。何日もろくに眠っていなかったうえ、魔力を使いすぎたのだ。激しい悪寒に襲われ、額から汗が噴き出し、机に突っ伏したまま動けなくなった。
翌朝、父親が工房を訪れた。
「クララ! ドレスはどうなった!」
返事がない。父親は机に突っ伏した娘を揺さぶった。
「おい! 起きろ!」
「……熱が」
「熱?」
「すみません。少し、休ませて……」
父親は舌打ちした。
「まったく、こんな大事なときに。薬を飲んで、さっさと仕上げろ」
そう言って、工房を出ていった。クララは再び目を閉じた。
そして、熱に浮かされた意識の中で、奇妙な夢を見た。
見知らぬ街。見知らぬ服。見知らぬ文字。机の上に置かれた、薄く平たい箱。その箱に向かって、ひたすら指を動かしている自分。
画面に並ぶ大量の文字。エラー。修正。またエラー。そして、ようやく完成したプログラム。
クララは夢の中で思った。
ああ、懐かしい。また徹夜してる。
……徹夜?
何かがおかしい。夢の中の自分は大人だった。日本という国で暮らし、プログラマーとして働いていた。毎日パソコンに向かい、プログラムを書いていた。
自分には、そんな人生があった。
クララは、はっと目を開けた。
薄暗い工房。積み上がった注文書。机の上には、まだ完成していないドレス。そして、扉の向こうから聞こえる使用人の足音。
「…………」
クララは、ゆっくりと起き上がった。前世の記憶は、驚くほど鮮明だった。学校に通ったことも、会社で働いていたことも、納期に追われていたことも覚えている。
同時に、今の自分がどういう状況に置かれているのかも、突然はっきりと理解できた。
十六歳。無給。休日なし。長時間労働。外出禁止。制作物はすべて他人の名義。体調を崩しても仕事を強制される。しかも、工房の扉には外から鍵がかけられている。
クララは扉を見た。
「……うわ」
もう一度、部屋を見回す。前世では、ブラック企業という言葉があった。しかし、これはどうだろう。労働契約すら存在しない。給料も出ない。辞めようと思っても外に出られない。
「……私、監禁されてない?」
口に出すと、急に恐ろしくなった。そして、腹が立ってきた。
自分は今まで、何を当然だと思っていたのだろう。家族が困る? だから何だというのか。自分をこんな目に遭わせている人間たちの生活を、どうして自分が支え続けなければならないのか。
クララは、しばらく考えた。
それから、実にあっさりと結論を出した。
「……逃げよう」




