エピローグ
「すみません。もう、閉館なんですけど」
警備員の男性が、不愛想に言った。その顔は、早く温かい家に帰って、日本酒でもと、言いたげだった。
「すみません、すぐに終わります」
将司はそう言うと、困惑する警備員の男性を押しのけるように、建物の中に入っていった。
来館者たちにはすでに閉館が伝えられていたのか、廊下ですれ違う人々は皆、手に数冊の本を持っている。本の表紙を眺めながら歩いている姿は、これから家に帰って本の世界に入り浸ることを、心待ちにしているのだろうか。
将司が図書館に入ると、カウンターの中で慌ただしく過ごす人たちの姿があった。一見した感じ、どうやらそこに彼女はいてなさそうだった。
将司は、そのまま、書棚に向かった。司書の仕事がどんなものかは知らないが、図書館で働いているのであれば、次の日のために、本棚の整理をしていてもおかしくはないと、思ったからだ。
それにしても、広い図書館だった。雑誌のコーナーだけでも、いくつもの通路を使っていた。将司の住む町の規模を考えたら、これほどまでに本が充実していたら、さぞや読書好きが町中に溢れるだろうなと思った。もっとも、将司が、この図書館の中に入ったのは、高校生のときに自習に来たとき以来だったのだが……。
すでに図書館を訪れていた人たちの姿はなかった。将司は、迷路のような通路をひたすら進んだ。図書館の最奥とも言える場所に、動く人影を見つけた。髪を肩の下まで延ばしているので、女性だろうか。黒のパンツにブラウス姿の彼女は、カウンターの中にいた職員たちと同じく、水色のエプロンをつけていた。彼女は、カートに乗せた返却されたばかりの本を、一冊ずつ本棚に戻しているところだった。本棚に戻すのに、本の背表紙を一冊ずつ丁寧にチェックするのは、佳代に違いがなかった。
将司は、ゆっくりと、佳代に近づいた。佳代は、それには気づかずに、黙々と作業をしている。佳代のもとまで、数メートルに近づいたとき、将司は「佳代?」と、声に出しかけて止めた。声なんて必要がなかった、昔と同じようにすれば、佳代に自分のことを気づいてもらえると思った。
将司は、佳代の横まで行くと、立ち止まった。その気配に気づいて、佳代が将司の方を振り向く。将司は、とびきりの笑顔を作って、両手の指先を合わせた。それを顔の前に持って行き、ゆっくりと開く。『おはよう』六年生だった将司が、佳代のために図書室の本を読んで調べた、たった一つの手話だった。
佳代は、将司の顔をひと目見て、すぐに気づいたようだった。恥ずかしがるでもなく、何かを伝えようとする訳でもなく、その瞳は、少年の頃の将司を見つめていた。
将司は、ポケットに手を入れた。中から何かを取り出すと、それを佳代にそっと差し出した。本が好きな佳代にいつかプレゼントしようと思って、校庭の花壇からその花を見つけて、こっそりと押し花にしたものだった。
佳代は、ゆっくりと手を伸ばして、将司からそれを受け取ると、表面に書かれた薄汚れた文字をじっと見つめた。『勿忘草』その花言葉は、『真実の愛』だった。
それからしばらくして、将司には人生を一緒に歩んでいく人ができた。かつて、佳代はクラスのみんなのために自分にできることを考えて、劇の台本を書くことにした。『未来の六年二組』と言うタイトルだった。そこに書かれていたことが、長い年月を経て、また一つ、実現した。




