第9話 最悪の選択
――――それは、
信じられないほど、穏やかで
温かく、満ち足りた日々だった…………
†††
朝――小鳥のさえずりと共に、清浄な森の空気に包まれて目を覚ます。
冷たい川の清流で水浴びをして意識を覚醒させ、喉を潤す。
――ときどき、魚にありつけることもある。
水辺は、植物の宝庫だ。
セリ、ミズバショウ、エゾニュウ、ウド……。
茎に含まれる豊富な栄養と水分が、冬眠明けで弱っていた胃腸に優しく染み渡る。
食事に満足したら、木登りで運動だ。
この体はブナの若芽が好物のようで、木登りの間に摘んではもきゅもきゅと口に運んでいた。
――誰に何を脅かされることもない。
この森の生態系の頂点として、天敵のいない長閑な暮らしを心ゆくまで満喫できた。
……ああ、ひょっとして――…………
そんなあるとき、俺は1つの事実に気づいた。
――2、3日もすれば、それははっきりとした確信に変わった。
……俺が、脱サラしてまで田舎に求めたスローライフは――――
到底、この生活に敵うものじゃなかった…………
それは、残酷で皮肉な事実だった。
†
当然といえば当然だが、山にいるツキノワグマは俺1頭ではなかった。
例えばブナの木に登ったり、水辺で草をかじっているとき、たびたび同族に出くわすことがあった。
初めてこの山で俺以外の個体を見かけたときは、思わずギョッとしてしまった。
生前を思い出し、心なしか心臓の鼓動が速くなった気がした。
……きっと俺の動揺は、肉体を共有する熊の心にも伝わっただろう。
だが、特に争いが起こるわけでもない。
〝――ああ、なんだ。お前か……〟
出くわした熊はそんな反応で、俺がまるでただの通行人か顔見知りであるかのように、少しも気にする素振りを見せなかった。
初めこそ驚いたものだが、出会う熊はどいつもそんな感じだったので、さすがに段々と慣れていった。
それに俺の体は、仲間のツキノワグマと比べても比較的大きいようだった。
たぶん、立ったときの身長は2メートルを超える。
もちろんヒグマほどではないが、雄のツキノワグマの中では最大級の個体だ。
――つまり、本州に生息する動物の中で、俺は個として最強格だということだ。
〝ここには、俺の敵になり得る生物はいない〟
俺は、真の意味でそれを理解した。
†
俺がまだ他の熊にビビっていた頃、俺の肉体を操る熊の精神は、他の熊に極力近づかないようにしてくれていた。
俺の心を気遣ってのことだというのは、すぐにわかった。
――熊って、こんなに優しい生き物なのか……?
――それとも、コイツが特別なのか……?
熊は猛獣のはずだが、家族愛のような感情はあるんだろう。
……俺を殺した熊は、おそらく俺が殺した子熊の母熊だ。
コイツの俺に対する思いやり(?)も、それに近い情動なのだろうか……
――それにしても、
いつまでも「コイツ」とか「熊」って呼ぶのも不便だな…………
そう思った俺は、この変わった熊(の魂)に名前をつけることにした。
他の熊と区別したかった、という理由は大きいが……それだけじゃない。
愛着に近い感情が芽生えかけていた。――それを俺自身、自覚しつつあった。
(――――まあ、「ミカヅキ」でいいか)
考えた名前は、安直と言われても仕方ないものだと思う。
よく知られているように、胸の三日月形の模様はツキノワグマのトレードマークだ。
その模様は個体間でどれも微妙に異なるのだが、こいつの模様は見事にきれいな三日月形をしていた。
〈……お前の名前、「ミカヅキ」でいいか?〉
《――――?》
早速ミカヅキに訊いてみたところ、返ってきた反応は困惑だった。
――それも当然か。
名前なんて概念自体が、熊には存在しないんだろう。
……ま、駄目って言われても呼ぶんだけどな。
〈――俺がお前をそう呼ぶ、ってことだよ〉
《――――!》
何度か名前を呼びながら説明すると、ミカヅキはなんとなく理解できたようだ。
驚きと、喜びの感情が伝わってきた。
俺はミカヅキが尻尾を振る様子を幻視した。(※ツキノワグマにそんな行動は見られない)
……まるでペットだな。
――いや、ペット扱いは失礼か……?
俺とこいつは、もう運命共同体だからな。
それから数日後――。
晴天の空を共に見上げて、なにげなくミカヅキに語りかけていると、彼から驚くべき反応が返ってきた。
《イイ、テンキ…………?》
〈――――!!〉
ミカヅキの魂が、言葉を発したのだ。
俺は驚いて問い返す。
〈――言葉が、わかるのか……?〉
《……ワカ、ル》
それはまだ、たどたどしくはあった。――が、確かに言葉の形を成していた。
――何週間か後に聞き出したところ、どうやらミカヅキは俺の思考から言葉を学習したようだ。
人間の赤ん坊が親や周囲の人々の会話から自然と言葉を身につけるように、ミカヅキの魂も俺から言語能力を獲得したらしかった。
……それにしても、驚くべき習得速度だ。
俺にとっては、良いことしかない。
少し前には、熊に生まれ変わるという悪夢のような体験をして、一生を孤独に過ごすのかと思った。
――それが、思わぬ同居者の意思に気づき、しかもソイツに話し相手にまでなってもらえるのだから。
…………熊生活、意外に悪くないのでは…………?
気がつけば、そう思いつつある自分がいた。
――――あるいは、こんな日々が一生続いても…………
心から、そう思える気さえした。
――――なのに、
俺ってやつは
本当に救いようのない、大馬鹿者だよなあ…………
自分から、
この穏やかな毎日を、ドブの中に捨てちまうんだから…………
†††
そんな穏やかな日々は、約2週間ほど続いた。
その後、俺の心を襲ったものは何か――――?
……それは、怒りだ。
身を焦がすほどの激しい怒りが、黒い炎となって俺の魂を包んでいた。
ミカヅキの魂が、そんな俺の魂にそっと近づく。
《マサミ、ダイジョウブカ……?》
〈ああ……〉
人間だった頃と違って、熊になった俺には時間が腐るほどできた。
ミカヅキのおかげで、一日中思考の海に沈み込むことさえできた。
――――だから俺は、あれこれと考えてしまった。
なぜ生前の俺は、あんなむごい仕打ちを受けなければならなかったのか?
いったい誰が、あの悲劇を生んだ元凶なのか?
……「能無しの浅知恵」という言葉がある。
俺のこれからの行動を第三者から見たら、そうとしか思えないかもしれない。
ぐるぐると広大で複雑な思考の迷路をさ迷い続けた俺は、やがて最悪かもしれない出口にたどり着いた。
〈――ミカヅキ、悪い。しばらく体を貸してくれるか……?〉
それはあくまで、俺の個人的な恨みに過ぎなかった。
……だが俺の体は、もう俺1人のものじゃなかった。
だから〝計画〟の実行には、少なくともミカヅキの同意が不可欠だった。
――――俺という存在は、ひょっとしたら悪霊の類いなのかもしれない。
生前の最も強い思い……怨念に囚われ、周囲を――ミカヅキを巻き込んでしまうのかもしれない。
あるいは、だからこそ熊そのものに取り憑いて、これからの凶行に身を堕とすのだろう……。
そして、ミカヅキの答えは――――
《――モチロン。オマエノ好キニスレバイイ》
……どこまでも、どこまでも俺にとって、都合のいいものだった……




