第10話 最初の一線
「――おぉ、こりゃまた見事な……」
山の中、楽しげな声を上げながら、山菜採りに興じる老人がいた。
(……とうとう、こっちに来たな……)
老人は、背後の茂みに潜む猛獣――俺の存在に、まるで気づく様子がなかった。
ミカヅキの快諾を得てから、数日が経っていた。
ここは、俺があのプリウスと若い男女を見かけた場所に近い、道路から少し山道を登った森の中だ。
老人はたぶん、地元の農家だろう。
ここ数日、軽トラックをこの辺りの路肩に停めて、こうして山菜採りをしているようだ。
彼は昨日まで、もう少し慎重な行動を取っていた。
人が整備した登山道から、大きく外れて動くことはしなかった。
……しかし、今日は欲をかいたらしい。
老人は山菜の魅力に惹かれたのか、立入禁止の看板を無視し、ロープを乗り越えてこちら側へやって来た。
――その看板にはこう書かれていた。
『危険! 熊出没注意!』
と。
その老人の顔を見て、俺はなんとなくあの『熊共会』の青馬を思い出した。
……どことなく、似ているような気がしないでもない。
殺意にゴウッと火が点いた。
……おあつらえ向きじゃねぇか
――元から、そうするつもりではあったけどな。
《――ヤルノカ……?》
〈……ああ〉
ミカヅキの問いに短く答え、俺は静かに茂みを離れる。
――この数日間、俺は自分の意思で木登りや小動物を狩る訓練をして来た。
今ではこの屈強な体を、ミカヅキにも負けないぐらい、意のままに操ることができる。
――――これから行うことは、ミカヅキには任せられない。
俺自身の、身勝手な復讐なのだから…………
†
ミカヅキは俺が何をするつもりなのかを説明しても、何故と問うことはなかった。
……元とはいえ、同族を襲うのは普通じゃないと思うんだが、熊から見れば人間のことなんかどうでもいいんだろうか?
逆に、俺の方がそう疑問に思ったぐらいだ。
――ふと、ある考えが浮かぶ。
ひょっとして、ミカヅキは俺が人間だったってことを知らないのか……?
そうかもしれない。
俺にとってはあまりにも当然のことだったから、それを説明するという発想さえなかった。
……この1件が片付いたら、ミカヅキに話をするか……
――俺は、そう心に決めた。
†
音もなく背後に忍び寄った俺に、老人は相変わらず気づく様子がなかった。
……不用心すぎる。
俺は油断なく右手を構える。
――悪いな、ジイさん。
別に、あんたに恨みはないよ。
……でもな、人間って生き物は脅威が目の前に迫らなきゃ、誰も自分事だって思わないだろう?
――だから、誰かが犠牲になる必要があるんだよ。
……せいぜい、俺のことを憎んでくれていいぜ。
意を決して、俺は右腕を振り上げた。
そして、いざその手を振り下ろす、
そのとき――――
(――――――っッ!?)
俺の右腕はまるで、金縛りにでも遭ったかのように動かなくなった。
(――――何だよっ!? おいッ!!)
わけがわからない。
異能バトルの世界じゃあるまいし、邪眼ににらみつけられたわけでもない。
鎖野郎に腕を縛り付けられたわけでもない。
見えない何かが、俺の動きを食い止めていた。
じゃあ、と左腕を振り上げれば、今度はそちらも動かなくなった。
《――マサミ、ドウシタ……?》
〈わかんねぇっ! なんだよコレ……〉
ミカヅキじゃない。
止めるなら、もっと早く止めてるはずだ。
老人が今にも振り返りそうで、俺の心はちりちりと焦げつきそうなほど切迫していた。
†
――――結局、
後からいくら考えても、このとき俺の体に何が起こったのかはわからず終いだった。
後にも先にも、俺の身にあんなことが起こったのはこのときだけだった。
――覚悟は、とっくに済ませたつもりだった。
それでも、いざ土壇場になって、
俺に残っていた、最後のひと欠片の良心が邪魔をしたのか――
……あるいは、他の何かの――誰かの仕業だったのか…………
†
両腕を振り上げたままの姿勢で、何秒が過ぎただろうか――
「…………うん?」
さすがに鈍い老人も、背後の存在に気づきかけていた。
(――――やべえっ!)
老人が上体をひねる瞬間、脳裏に逃走という選択肢が浮かんだ。
スッと全身の力が抜けた。
――すると、さっきまでの金縛りの感覚が嘘のように消え去った。
振り返った老人が、驚愕に目を見開く。
「く――――」
グチャッ
――判断は、一瞬だった。
老人は叫び声を上げる間もなく顔面に俺の爪を喰らい、頭から激しく地面に叩きつけられた。
血飛沫が舞い、地面に真っ赤な花が咲いた。
そのあまりのあっけなさに、俺はしばらく呆然とした。
――肉を切り裂き、骨に食い込んだ爪の感触が、しばらく忘れられなかった…………




