第8話 唯一の救い
その後――
途方に暮れた俺は、気づけばまた元のねぐらの近くまで戻って来ていた。
熊の魂が勝手に行動してくれたようだ。
自分ではすぐに動く気がしなかったので、ある意味でありがたかった。
――なんとなく、その熊が戸惑っていたような、そんな気がした。
熊が何を考えていようがどうでもいいが……体のことを気にしなくていいのは楽だ。
俺はしばらく体を動かすのは熊に任せ、思考に没頭することにした。
†
20年前――200X年の俺は、中学1年生だった。
――――俺が生まれ変わったこの世界にも、当時の「俺」はいるのだろうか…………?
気になる問題だが、冷静に考えてそれを知る術はない、と言えた。
まず、地理的な問題がある。
俺が凌雲平の麓にある凌雲平市に住んでいたのは、小学2年の頃までだった。
その後、親父の単身赴任に伴って、母の実家がある仙台に移り住んだ。
凌雲平から仙台市までは約220キロ。
時間さえかければ、決して行けない距離ではないだろう。
……が、この姿で俺があの都市に現れたらどうなるか――
――それは、想像に難くない。
そもそも、それを確かめてどうなるという話だ。
意思疎通の手段もない。
中学生男子である「俺」の立場になって考えれば、もしも異常行動するツキノワグマに目をつけられたら、百害あって一利無しだ。
結論――「俺」の存在を確かめる意味はない。
†
じゃあ――――
これから、どうする…………?
俺の思考は、そこで何もない空中に放り出された。
――――俺はこの先、一生この姿のままなのか…………?
野生のツキノワグマの寿命は、確か20年ぐらいだっただろうか。
俺が憑依したこの個体が何歳か、正確にはわからない。
――が、体は十二分に大きいものの、まだ若々しい生命力のようなものを感じた。たぶん、4歳か5歳ぐらいだろうか……
つまり、何事もなければあと約15年はこのまま、ということだ。
――――あまりにも、長い――――
思わず、気が遠くなった。
現代日本で暮らしていた俺が、そんなにも長期の野生生活に耐えられるのか……?
いくら、熊の魂が同居しているとはいえ…………
――――最初の数年で、人としての俺の精神は摩耗し尽くし、その後は心まで熊と一体化してしまう……
……そんな悪い想像が脳裏に浮かんだ。
――また、死ねってでも言うのか?
……どうして、俺ばっかりこんな目に…………
答えのない疑問とともに、心が徐々に黒く染まっていくのを感じた。
そんなとき――――
《――――しばらく、休んでいればいい》
突然、脳内に穏やかな声が響いた気がして、俺はハッとした。
その声の送り主は――――?
――――思い当たる答えは、1つだけだった。
そう。
俺と1つの体を分け合うことになった、この熊の元々の魂だ。
†
熊の魂の声を聴いた俺は、非常に驚いた。
言っちゃあ悪いが、それまではほとんど自我を持たない、ロボットかプログラムに近いような存在だと思っていたから。
……当たり前の話だが、コイツも生き物だった。
驚いた俺は、熊の声に応えようと強く意識した。
〈――……お前、俺がわかるのか…………?〉
《…………》
はっきりした返事はなかった。
しかし、俺ではない熊の意思が、確かにそこにあるのを感じた。
熊は、俺の胸中の不安を察し、労るような感情を放っていた。
(…………言葉がわかるわけないか…………)
考えてみれば、当然のことだった。
人語を解する熊の話なんて、聞いたこともない。
おそらく、さっきは俺の強い負の感情に気づき、それに感覚的に応えてくれたのだろう。
言葉が聴こえたように感じたのは、一種の〝幻聴〟のようなものかもしれない。
――ここで、俺は気づいてしまった。
熊の声に気づく直前よりも、明らかに心が軽くなっているという事実に――
(――――熊ごときに励まされるなんて…………)
熊に殺された身の俺としては、甚だ不本意ではあったが……
――――まあ、コイツ自身に罪があるわけじゃないしな…………
俺の頭の中で、人として死ぬ数日前から、今ここに至るまでの経緯が再生される――
――大事に育てた鶏を300羽も喰い殺され、それをなぜか頭のおかしな保護団体の会長になじられ、警察に罪に問われそうになり、山に行っては熊に殺され――かと思えば別の熊に乗り移り、しかも20年前にタイムスリップし、…………
……と、どう考えても最悪としか思えない体験ばかりだった。
本当に、もし俺をハメた奴がいるとしたら、100回はブチ殺してやらないと気が済まない。
――――が、ここへ来てほんの少しだけ、救われたような気がした。
俺は、独りじゃない。
――独りぼっちじゃ、なかった……。
たったそれだけのことが、こんなにありがたいなんて――――
俺は、声を思念にして熊に送る。
〈――――じゃあ遠慮なく、お言葉に甘えさせてもらうぜ〉
《…………》
熊が、任せろ、と言った気がした。
†††
――――それから約2年間、俺はこの熊の魂と奇妙な共同生活を送ることになる。
長かったようで、終わってみればあっという間だった。
…………でもまさか、あんな幕切れを迎えることになるなんて…………
本当に……申し訳なくて、恥ずかしい気持ちでいっぱいだよ。
――――お前には、どれだけ謝っても謝り足りねぇな…………
…………なんだよ?
――――〝自分が好きでやったことだ〟……って?
…………ああ、わかってるよ。
そういう約束だったもんな…………
――――でも、1回だけ言わせてくれ。
ごめん。




