第7話 悪夢の続き
ゆっくりと、意識が浮上する。
「――……グウ?」
現在の俺は、山奥の穴ぐらの中にいた。
眼前の自分の両手を見て、それが今際の際に見たあの黒い毛むくじゃらの手とそっくりであることに、軽く混乱した。
…………ああ、そうだった…………
あのとき、あの母グマに為す術なく殺られた俺の魂は、どういうわけかこうしてこのツキノワグマの中に入ってしまったのだ。
――――長い、長い夢を見ていたみたいだ…………
熊と化した俺は、いつの間にかこの穴ぐらの中で寝入ってしまっていたらしい。
まるで悪夢のような状況だが、今となってはどっちが夢なのかわかりゃあしない。
――――まさか、人間だった頃の出来事は一夜の夢に過ぎず、本物の俺は元からこの凶暴な熊だった…………?
……なんて事実は流石にないだろうが、いずれにせよ自分の正気を疑いたくなる事態なのは確かだ。
俺はのっそりと四つ足で立ち上がり、穴ぐらを抜け出す。
また、腹が減っていた。
†
昨日から薄々と察してはいたが、俺が乗り移ったこの熊自体の精神――というか魂か――は、消え失せたわけではないようだ。
そうでなければ、元現代人の俺がそのまま熊として生活するのは大変だっただろう。
今の俺の感覚は、車の助手席にでも座っているような感じか……。
あるいは、――そんな経験はないが――航空機の副操縦士のようなものかもしれない。
俺が強く意識すれば、熊はその通りに動く。
1人用のシューティングゲームをプレイしているみたいに、熊の動きを背後からリアルタイムで観察しているような感覚。
ずっと見てるだけじゃない。
ハンドルを奪い取って、直接体を操縦することさえできる。
逆に、と思う。
――――コイツにとっては、俺はどんな存在なんだろうな…………?
†
新鮮な森の幸で飢えを満たした俺は、ともかくこの場所の位置に関する手がかりを得たいと思った。
タケノコやツクシ、フキノトウといった植生から、日本のどこかの春の山なのは間違いないと思うんだが……
これまで見た限り、人間の頃に登った山の中では、この山だと断定できるような特徴がなかった。
地図上の位置がわかれば、また話は変わるかもしれないが……当然、そんなものはこの場にない。
山頂に向かうか、下山して人里を目指すか――――
……やや迷ったが、俺は後者を選んだ。
山頂で人と出くわしたりしたら、逃げ場がないような気がした。
なるべく、人に見つからないように動こう。
そう思った。
熊の体を操り、山を下る方向へとしばらく森の中を進んだ。
それから――
「…………」
俺は今、山間を縫うように走るアスファルトの路面を見下ろしていた。
人工の車道だ。
センターラインは描かれておらず、道幅は車がギリギリですれ違える程度か……。
木陰で息を潜めること、10分あまり――。
その間、車は1台も通らなかった。
時間帯の問題なのか、そもそもここが僻地なのか……
そのまま、更に10分以上は過ぎただろうか。
――――ブロロロロ…………
自動車が遠くから風を切って近づくあの馴染み深い音を聴き、俺はガバッと振り向いた。
――あの車は…………
鮮やかなライムグリーンの乗用車が、静かなエンジン音と共に接近していた。
見覚えがある。
トヨタのプリウスだ。
しかし、あの型は……歴代のプリウスの中でも、かなり古いものじゃなかったか……?
俺が死んだときには、プリウスの第5世代が販売されていた。だが、あの車は3代目――いや、2代目か……。
もう登場して、20年以上経ったモデルだ。
――なんで、あんな骨董品を……?
そんな俺の疑問を他所に、プリウスはちょうど俺の足下付近の路肩に停車する。
ギョッとした。
――ここに来るのかよ。
ややあって、プリウスのフロントドアが左右に開く。
ライムグリーンの車体から地面に降り立ったのは、カップルと思われる若い男女だ。……おそらく、どちらも20代前半か半ばぐらい。
女の方はオシャレをしているようだが――俺は、その服装に違和感を覚えた。
どうも、流行から10年か20年は遅れているような……
――まあ、女のファッションなんかどうでもいい……
俺は2人の会話に耳をすませる。それなりに距離は離れていたが――
「……本当にここで合ってる?」
「……ガイドブックに載ってたから、間違いないって」
――そんな言葉のやりとりが、明瞭に聴こえてきた。
どうやら熊になったことで、聴力が人間より格段に向上したようだ。
――観光客か……?
……ということは、近くに観光名所でもあるのか……?
そういえばここに来る途中で、大きな滝の近くを通りかかったような気がする……。
そのままカップルの動向を注視していた俺は、まずいことに気づいた。
――こっちに、近づいて来る。
このままバッタリと出くわしてしまったら、2人とも腰を抜かすだろう。
それよりは予め、ここに熊がいると示しておくのが良さそうだ。
……しかし、近くに熊がいるというのに、コイツら不用心すぎないか……?
――――グオォッ…………
俺が声を上げた途端、2人の動きがピタリと止まった。
――俺としては、少しだけ声を上げるつもりだった。
……が、それは敵対者を威嚇するような低い唸り声になった。
山道に足を踏み入れようとしてた男女は、ギギギ……と錆びついたロボットのような動きで互いの顔を見合わせる。
「……今の聴いた……?」
「……あ、ああ……。動物が吠えたみたいな声だった」
……それでも、何の動物かまでは伝わらなかったらしい。
――――もう、面倒だな…………
「――ガルルルゥッ!」
俺はより大きな咆哮を上げ、ついでに近くの木の枝をワサワサと揺らした。
――さっさと気づきやがれっ!
その瞬間、2人はビクッと恐怖に体をすくませた。
……このとき、何かがバサッと地面に落ちる音がした。
「――ひゃ、ひゃあっ! ……これ、絶対ヤバいやつだよぉっ!」
「――う、うん! ……逃げよう! 今すぐに!」
そんな言葉を交えつつ、2人の男女は一目散に乗ってきた車の方へ駆け戻る。
程なくして――
――――キュキュルルルッッ!
2人を乗せたプリウスは、タイヤで激しく地面を擦りながら急発進して去って行った。
†
車が遠くまで走り去ったことを確認し、俺は2人が侵入しようとしていた山道の入口に向かう。
2人の内どちらか――おそらく男の方――が、何かを落とした音を聴いていたからだ。
俺は〝それ〟を見つけ、拾い上げる。
爪で傷つけないように気をつける必要はあったが、熊の手は思いのほか器用で、意のままに動かせた。
それは、日本中をカバーする有名な観光ガイド雑誌だった。
俺も人間の頃、このシリーズの雑誌を買ったことがある。
雑誌の表紙にはまず、フォーカスする地名が最大フォントで記されている。
(――凌雲平、か…………)
その地名は、俺にとって懐かしさを感じさせるものだった。
岩手の西の高原地帯。秋田の上津野市からも、比較的近い位置にある。
自分の居場所がわかり、少しだけ地に足が着いた気がした。
――――が、それも束の間のことだった。
同じ表紙に記されていた、もっと衝撃的な情報が、俺の目を釘付けにした。
――グルルッ……
(――マジかよ……)
思わず、唸った。
『200X』
――――それは、この雑誌の発行年を表していた。
落雷のような衝撃が、熊となった俺の全身を貫いた。
……角度を変えつつ何度見返しても、その数字がブレることはなかった。
見るからに真新しいその雑誌は、図書館から借りてきたというわけでもないだろう。
それは、俺が命を落とした202X年から数えて、ちょうど20年前に当たる年だ。
一方で俺は、先ほどから感じていた違和感がするりと氷解するのを感じていた。
――なぜ、プリウスは旧世代の型だったのか。
――なぜ、女のファッションが一時代古いものだったのか。
それらの答えは、その数字――年号にあった。
……俺は、ただ単に死んで熊に乗り移ったわけではない。
時代を遡って、憑依転生していたのだ。




