第26話 因果応報
――――20年前。
中学の行事で、スキー教室に行ったような記憶は確かにある。
当時の俺はスキーが苦手で、母に強く言われて嫌々ながら行ったんだったかな……。
だがそこは、この蓮丘スキー場ではなかった。
栗駒山周辺の別のスキー場ですらなかった。
――にも拘わらず、目の前の現実は俺の記憶にあった事実と矛盾していた。
なんで今日に限って、こんな食い違いが起こるんだよ……
熊になってから今まで、こんなことは一度もなかった。
俺自身が起こした変化があるのは当然だが、この世界で起こる他の出来事は、過去俺が生きていた地球の歴史をそっくりそのままなぞっていた。
「グルルッ……」
「――ひいぃっ!」
俺が喉を鳴らすと、少年の「俺」が頭を庇うような姿勢を取る。
――チッ……
自分がガキの頃の情けない姿を見ると、イラっと来るぜ……
当時の俺が行ったスキー場は、確か――――
――――そのとき俺は、自分が犯した致命的なミスに気づいた。
…………やらかした…………!
「俺」が行くはずだったスキー場の近くで人を殺したのは、俺自身じゃねぇかっ!
††
――1か月ほど前のことだった。
俺は奥羽山脈沿いに30kmばかり南下し、宮城県側のスキー場の近くで人を襲った。
オニコウベスキー場――――それが、俺が中二のころ訪れたスキー場の名前だ。
…………考えてみれば、ごくごく当たり前の話だ。
殺人熊が出るような場所に、学校が子供を連れて行くわけがない。
俺が起こした行動こそが、「俺」の辿る未来を変えてしまったのだ。
(――――これが、「バタフライエフェクト」ってやつか…………)
どれだけの間、俺が「俺」の目の前で硬直してしまったのか――――
――それはもう、俺にもわからない…………
†††
「…………うぁ……あ…………!」
熊を目前にした少年――望月将未は、恐怖に身を竦ませていた。
――無理もないことだ。
将未少年の前に現れたのは、雄のツキノワグマの中でも最大級。体長1.6メートルにも及ぶ個体である。
立ち上がったときの身長は、2メートルを超える。
日常とは縁遠い「死」の危険に最接近してしまったのは、将未にとって思いがけない不幸だった。
見れば、熊の向こう側には足を怪我した猟師らしい女性もいる。
……熊と争って、負傷したのだろうか……?
(――――もしかして、ウワサの殺人熊……ッ!?)
将未はごく自然にそれを連想した。
「グルルッ……!」
「――ひいぃっッ!」
熊に吠えられ、将未は思わず頭を庇った。
(…………なんで、俺がこんな目に――――)
将未は死の恐怖に怯えながら、己の不幸を呪った。
――――なぜ、スキー教室を体験していた将未少年が、たった1人でこの場に現れたのか。
その理由は、先ほど人喰い熊となった「将未」が想像した通りだった。
将未少年は自由時間に森林の間を下るコースに挑戦し、見事にカーブで失敗した。コースを外れた少年は、ごろごろと崖を転がり落ちてしまった、というわけだ。
幸い、深い雪がクッションになったおかげで、彼に怪我らしい怪我はなかった。
将未はこのとき、携帯電話を所持していない。
すぐに助けが来る気配もなかったので、仕方なく歩いて自力でスキー場まで戻ることにした。
熊の「将未」と遭遇したのは、その道中だった。
††
――――およそ、1分。
熊の「将未」と将未少年が、数奇な運命の悪戯によって顔を向き合わせていた時間である。
このとき心にショックを受けていたのは、同じ魂を持つ人と熊だけではない。
熊となった「将未」の魂の同居者――ミカヅキもまた、不思議な少年を前にして雷に打たれたような衝撃を受けていた。
(…………コノ子供、マサミト同ジ――――?)
常に「将未」の魂に寄り添っていたミカヅキは、目前の少年が他の人間とは一線を画す存在だと気づいた。
――だから、「殺そう」とも「逃げよう」とも思わなかった。
その結果、「将未」もミカヅキも、その場で凍りついたように動けなかった。
「…………?」
襲われないと察したのか、少年が恐る恐る頭を抱えた腕を緩め、熊を見上げる。
(――せめて、さっさと追い払わねぇと……!)
「将未」はそう思った。
――自分は、泣く子も黙る人喰い熊だ。
こんな子供に、舐められるわけには行かない。
「将未」の後ろ足は地面に縫いつけられたかのように動かなかった。――が、なんとかその場で立ち上がり、腹の底から咆哮を放つ。
「…………――――グルルアァァッッ!」
「ひえぇぇっっ!!」
「将未」の眼前にいた少年にとって、それは鼓膜が破れるような衝撃だった。
少年は蛙のように両足を曲げ、ごろんと仰向けにひっくり返った。
(――――そうだ。もっと怯えろ…………)
「将未」は少年の恐怖を感じ、内心で満足した。
その、次の瞬間だった。
――――バァァンッッ…………
乾いた銃声が、雪原に広く響き渡った。
(――――あ゛…………?)
その直後、「将未」はゴフッと大量の血を吐いていた。
「ひいいぃぃぃっ!?」
その血の一部を浴びた少年が、軽いパニックを起こす。
《――――マサミッ!!》
ミカヅキの悲痛な叫び声が「将未」の頭に響く。
――――背後から、肺を撃ち抜かれたのだ。
「将未」はそれを、どこか他人事のように自覚した。
撃ったのは誰か?
…………考えるまでもない問いだった。
(――――なんだよ。せっかく見逃してやったって言うのに…………)
「将未」は溜め息を吐こうとしたが、ゴボゴボと赤い血の泡を噴くことしかできなかった。
息苦しさをこらえ、「将未」はゆっくりと背後を振り返る。
――――カシャン、と小気味良い機械音が鳴った。
振り返った「将未」の視線の先で――――
若い女猟師――――不動蓮華が、膝を立てて猟銃を構えていた。
蓮華は下唇を噛み、表情に悲壮な覚悟をにじませていた。
――――ダァァンッッ
《マサミイィィッ!!》
――――放たれた重いサボットスラッグ弾は、雄熊の心臓を正確に破壊した。
(…………あぁ、これが俺の最期か…………)
その瞬間、「将未」は自分が2度目の死を迎えることを理解した。
〈――――ミカヅキ、すまなかった…………〉
どこか物悲しい、哀れを誘う断末魔の声を上げながら、
日本中を恐怖で震え上がらせた人喰い熊は、天を仰いで白雪の床に背を沈めた。
《――――――マサミイイイィィィィッッッ!!》
熊の魂の慟哭は、誰の耳にも届かなかった。




