第25話 過去からの刺客
熊の巨体は、猛スピードで蓮華に衝突した。
立射を終えた直後だった蓮華は、受け身も取れず仰向けに押し倒された。
それだけで大怪我をしてもおかしくなかったが、深い雪がクッションの役割を果たし、この時点の蓮華は無傷だった。
――――とはいえ、すぐに熊の爪牙の餌食となるだろう。
なにせ、相手はあの『人喰い残月』なのだから…………
†
雄熊の重みを全身に感じ、蓮華は死を覚悟した。
蓮華は恐怖に負け、強く目を閉じた。
しかし――――
――――――――……………………?
…………いったい、何秒が過ぎただろうか。
決定的な瞬間は、未だに訪れなかった。
蓮華がゆっくり目を開くと、熊の大きな顔と目が合った。
「――ひっ」
蓮華は喉の奥で小さな悲鳴を漏らした。
ただし、熊がそれに反応することはなかった。
……蓮華の心は、徐々に落ち着きを取り戻していった。
その後、むくむくと次の疑問が生じるのは自然なことだった。
(なぜ、殺さないの――――?)
物言わぬ熊の心を推し量ることなど、蓮華にはできない芸当だった。
†††
カーキ色の帽子とベスト。
遠目に見えた女猟師の装備を見たとき、記憶の奥底を刺激された。
――あれは、200X年の終わり際のことだった。
妙に手強い猟師がいた。
ライフルの名手で、俺たちが偶然に助けられなければ、最初の狙撃で命を落としていてもおかしくなかった。
この若い女猟師は、そのベテラン猟師と全く同じ物を身に着けていた。
……しかも、女が着たブカブカのベストには――元は大きく裂けていたのだろう――大きく縫って、補修した後があった。
(――――コイツ、あのときの…………!)
薄々察しはついていたが、確信に至ったのは飛びかかった瞬間だった。
間違いない。
この猟師は、俺が1年前に何度か凌雲平で見かけた、あの女だ。
……そして、きっとあの猟師の娘なんだろう……
《マサミ、コノ人間、故郷ノ山デ見タ――》
〈……ああ、そうだな〉
ミカヅキも、この女のことを思い出したらしい。
――動機は、復讐か…………
女の眼差しには、仄暗い炎が宿っていた。
凌雲平からここまで、若い身空で何か月もかけて追って来たのだ。――それも、個人で。
俺だという確証もなかったんだろう。
……あったなら、もう少し組織立った動きをしていたはずだ。
さっきまでの戦いぶりと言い、とんでもない女だな。
《――早ク殺ソウ、マサミ》
〈…………〉
ミカヅキの言葉は正しい。
実際、俺もさっきまではそうするつもりだった。
今ここで止めを刺さなければ、この女はどこまでも俺を追って来るだろう。
慈悲を与える理由など――――
《マサミガヤラナイナラ、オレガ――――》
〈……待て! ミカヅキ!〉
俺は脳内でミカヅキの行為を押し留めた。
同時に大きな吠え声を発したため、女がびくりと体を震わせていた。
《――――殺サナイノカ…………?》
ミカヅキに問われたとき、俺はもう1つ大事なことを思い出していた。
――そうだ。
この〝計画〟を始めたとき、最初に決めたじゃないか。
〝――前途ある若者は殺さない――〟
と。
あぁ…………
危うく俺は、自身に課した大事なルールを自分から破るところだった。
――知らず知らずの内に、心まで失くしたケダモノに成り果ててしまうところだった。
もう、迷いはなかった。
〈――殺さない。この女は、まだ若い〉
《ソウカ……。マサミガ、ソウ言ウナラ……》
我ながらひどい手の平返しだと思うが、相変わらずこの熊の魂は俺に忠実な姿勢を見せてくれた。
……ここまで付き合わせたのに、悪かったな。
――とはいえ、もちろんこのままただで帰すなんて選択肢はない。
ヤクザではないが、俺だって舐められたら終わりだからな。
†
――さて今の俺の体勢だが、いわゆるマウントポジションに近い形だ。
よほど俺が油断しない限り、ここから女が起き上がるのは不可能だろう。
俺の右腕は相変わらず使い物にならないが……まあ、なんとでもなるさ。
「あっ――」
俺はまず、女が両手で抱えていた猟銃をガブリと咥えて奪い取る。――で、首をぐるんと振り回して遠くに放り投げた。
……銃なんか持たせたままだと、危ないからな。
「――くっ!」
女は自由になった左手を腰元に伸ばし、ナイフを取り出そうとした。
……まだ諦めないとは……
いい根性してるな、こいつ……
――だが、みすみすそれを許す俺ではない。
オラッ!
「……ぶっ!」
俺は女の顔面に頭突きを喰らわせた。
女がひるんだ隙に、左手でナイフをケースごと引きちぎって奪い、銃と同様に遠くに放り投げる。
「あぁ……」
女が嘆きの声を上げた。
――どうやら、攻撃の手段は尽きたようだ。
それでも、キッとした目つきで俺を睨みつけて来るのは流石と言うほかないな。
一時は死を受け入れたような顔をしていたが、殺されないとわかって息を吹き返したか……。
とはいえ、ここで足の1本でも折っておけば、すぐに追って来ることはできないだろう。
別に女を甚振って楽しむ趣味なんかないんだが……せいぜい、授業料とでも思ってくれ。
俺は女を地面に押さえつけながら体を反転させ、左の前足で女の左足にぐっと体重をかける。
ボキリ、と骨が折れる嫌な手応えを感じた。
「――ぐあぁぁっ!」
女の苦悶の声を聞いて、思わず眉をしかめそうになった。
――――さて、これでやるだけのことはやった。
もう、この女に用はない。
俺は栗駒山の拠点に帰るべく、女に背を向ける。
すると――――
「…………待て、『残月』!」
10歩も進まない内に、女猟師の鋭い声によって呼び止められた。
――いや、「ザンゲツ」って誰だよ。
……という、気持ちもなかったわけではない。
ちらりと肩越しに振り返ると、女がよろよろと立ち上がっていたので驚いた。
折れた足で、無茶をしやがる……。
「――なんで、私を殺さないのよっ!」
女は、怒りを露わにしていた。
柳眉を逆立て、頬を朱に染めていた。
――俺たちが情けを掛けたことに気づいたのか……
とはいえ、返答の手段もないんだが……
女の声は続く。
「私を見逃したら、私はこの先何度でもお前を殺しに行くわよ!」
――そうだろうな。
……お前はきっと、そういう奴だ。
「ガウッ」
――来るなら来いよ。
そんな意味を込めて、俺は軽く吠えた。
俺はそのまま前に向き直り、歩みを再開する。
女の反応を確かめることはしなかった。
これ以上、あいつの言い分を聞く意味はない。
実際のところ、それから女が再び俺に声を掛けることはなかった……。
†
〈待たせたな、ミカヅキ〉
《ダイジョウブ》
激闘と残務処理を終え、今度こそ俺は帰路に就いた。
――とりあえず、さっさとこの右肩をなんとかしないとな…………
どこかで休憩を取ろうと、考えていたときのことだった――――
「――――えっ、熊…………?」
唐突に、俺の目の前に小柄な人間が現れた。
それは、スキー板を担いだ少年だった。
――――はっ…………?
見るからにスキー客という出で立ちだった。
なぜ、こんな所に一般人が…………?
スキー場からはまだ距離があったはずだ。
コースアウトして、自然林に転落でもしたのか……
――とにかく、関わり合いになる必要はない。
俺は、さっさとその場から立ち去ろうとして…………
――――ピシリッ
そいつの顔をはっきりと視認した瞬間――――、
――――俺の全身に、電流が走った。
《マサミ……ッ!?》
頭の中で、ミカヅキの驚愕の声が響いた。
「――ひぇっ!」
少年は驚いて尻もちをつく。
抱えていたスキー板やストックが雪上に散らばった。
……無理もない反応だが、俺に彼のことを気にかける余裕はなかった。
――――馬鹿な…………
――そんなはずはない
こいつが今、この場所に居るわけがないんだ……!
そう。
俺は、コイツを知っている。
年齢は…………今、14歳のはず。
――――この少年の名前は、『望月将未』。
20年前の――――
俺自身だ。




