第24話 双黒、相打つ
――遠目にソイツを見た瞬間、黒い怨念のようなものが見えた気がした。
ソイツは、猛々しく燃える業火のような殺意を身に纏っていた。
……あぁ……
ソイツは、俺自身を映す〝鑑〟だったのかもしれない――――
†
《――――マサミッ!?》
ミカヅキの声が聴こえたとき、俺は自らの死を幻視した。
「……グルァァッ!!」
一瞬の後、俺は左側に倒れ込むように体をローリングさせた。
わずかに遅れて、直前まで俺の頭があった位置を銃弾が突き抜ける。
……つまり、こういうことだ。
――――躊躇なく連射して来やがった…………!
風下からの奇襲。
そして、息を吐かせぬ2連射。
……この敵は、今まで俺が楽に命を奪ってきた連中とは毛色が違う。
執念深く、そして殺意に満ち溢れている。
――――1年と少し前にも、こんな猟師がいたなぁ……
どうやら、転がったおかげでヤツの射線から外れることができたようだ。
――だが、右腕の肩から先に全く力が入らない。
……早く弾を抜かないと、命取りになるかもな……
俺はそのまま3本の足で地を這うように移動し、手近な木の陰に隠れる。
あわやというところで、1発の銃弾が木の脇を掠めた。
……先ほどの連射はセミオート式の銃に匹敵するものだったが、無駄撃ちはしないタイプのようだ。
――あるいは、装弾数がそれほどないという可能性もあるか。
まだ狙撃手の姿をはっきり視認できていない。が、どうやら100メートルほど先にいるようだ。
俺の頭の中で、ミカヅキが言う。
《マサミ、逃ゲヨウ》
〈逃げる、か……〉
……確かに、それも1つの手だ。
幸い、ここは森の中だ。
木々に紛れれば、上手く煙に巻けるかもしれない。だが……
〈――いや、駄目だ〉
《ナンデ……?》
俺には確信があった。
――この敵からは、逃げられない。
……きっと、すぐに追いつかれてしまうだろう。
それは、根拠のない直感に過ぎなかった。
だが、なぜか俺はそれを真実だと思って疑わなかった。
――ゆえに、今ここで仕留めなければならない。
《デモ――マサミ、ケガシテル……》
〈……ああ、悪いな。当たっちまった〉
ミカヅキの指摘は正しい。
――が、逆に考えれば、逃げることにもリスクがある。
傷口から滴り落ちる血は、きっと巣穴に死神を招くだろう。
この程度の怪我なら、丁度いいハンデだと思えなくもない。
そもそも、このツキノワグマの肉体は人間の大人より何倍も強い。
俺は殺意を固め、犬歯を剥き出しにする。
――殺しに来たってことは、殺される覚悟もあるってことだよなぁ…………!
†††
――――殺った!
猟銃で2発目を撃った瞬間、蓮華ははっきりと手応えを感じた。
満を持して撃った1発目は、熊の振り返りによってわずかに狙いが逸れ、急所を外した。
蓮華はそれを悟った瞬間、最速でポンプアクションを行って第2射を放っていた。
――流れるような完璧な動作だった。
しかし、その後で起こった出来事に蓮華は目を疑った。
熊が、雪原に崩れるように転がって銃撃を回避したのだ。
「…………は?」
思わず、蓮華は声を漏らした。
――――あり得ない。
蓮華がそう思うのも無理はなかった。
銃弾の速さは音速を超える。
音を聴いてから避けるのは不可能だ。
つまり、2発目が来るとわかっていなければ絶対に避けられないはずだ。
(――――いるの、そんな熊…………?)
常識を破壊する現象が、いま蓮華の目の前で起こっていた。
――これが、『人喰い残月』の恐ろしさなのか……?
蓮華の背筋が震えたのは、寒さのせいだけではなかった。
蓮華の心は乱れていたが、訓練を積み重ねた彼女の手はそれでも休まず動き続けていた。
ホルダーから2発の弾丸を引き抜き、淀みない手つきで装填口から弾倉に送り込む。
……これでもう、弾倉は一杯だ。
散弾銃の弾倉に入れられる銃弾は2発まで、と銃刀法で定められている。
――ただし、薬室に発射前の1発をセットしておけば、弾倉の2発と合わせて最大で3発続けて撃つことができる。
(……できれば、常に3発セットしておきたいところだけど……)
その余裕はないかもしれない――と、蓮華は予感していた。
なお、薬室に長い間弾を留めておく行為は暴発の恐れがあり、大変危険である。
そのため、蓮華が熊を発見するまで、レミントンM870の装弾数は2のままだった。
蓮華の予感が正しかったことは、その直後に証明された。
(――速い! ……それに、森の中をッ!?)
『人喰い残月』と思しき熊の行動は、とても野生動物とは思えないものだった。
蓮華が2発の弾を装填し終えたときには、もう熊は動き出していた。
熊は時に大胆に、時に木立を利用して狡猾に、巧みな動きで翻弄しながら、徐々に蓮華との距離を縮める。
初撃を食らった右腕は接地していないにも関わらず、その動きは健常な熊と遜色がなかった。
「…………くっ!」
それでも蓮華は戦意を失うことなく、木々の隙間を縫って熊を狙い撃つ。――が、不規則な熊の動きを捉えることはできない。
そして熊は、蓮華の再装填のタイミングを見計らって着実に距離を詰めてくる。
――蓮華はまるで、自分の思考や残弾数が熊に筒抜けになっているように感じた。
(そんなはずないわっ! ……相手は熊よっ!)
蓮華が先制攻撃を仕掛けたとき、熊との距離は100メートルあった。
しかし、蓮華が1発弾を撃つ間に――1発リロードする度に――それが20メートルずつ縮んでいた。
(……このままじゃ、不味い…………!)
熊との距離が50メートルを切ったとき、蓮華は木の側を離れて後退することを決めた。
それは逃げるためではない。周囲に木のない、開けた場所に向かうためだ。
その狙いは――――
(――――ギリギリまで引きつけて、狙い撃つ…………!)
およそ、平和な日本の女子大生にしては狂気の沙汰としか思えない、覚悟が極まりきった思考だった。
蓮華の狙いは、敵手である熊にも伝わったらしい。
熊は、蓮華の待つ広場に入る直前でピタリと足を止めた。
そのとき蓮華の双眸が、熊の胸に描かれた完全な三日月模様を映す。
蓮華の目が大きく見開かれた。
(――――やっぱり、〝アイツ〟だった!)
間違いない。
蓮華が今日まで追い求め、何度も夢にまで見た仇敵。
最愛の父、修悟を殺した、許されざる悪鬼。
――――『人喰い残月』
その確信を得た刹那、蓮華の心の中に嵐のごとく黒い激情が吹き荒れ――――次の瞬間に、それはピンと張り詰めた凪に変わった。
(――――…………殺ス…………!!)
荒れ狂う怒りと復讐心を、ただ一点の殺意に凝縮したのだ。
油断なく構えを取る蓮華の銃には今、薬室に1発の弾が入ったきりだ。
『残月』との距離は、20メートル弱。
まばたきさえ命取りになる距離だ。
今の蓮華に、銃から手を離してホルダーに手を伸ばす余裕はなかった。
――――1発で決める。
それ以外の選択肢はなかった。
この状況は、否が応でも蓮華の集中力を極限まで高めた。
そんな蓮華の状況を知ってか知らずしてか、『人喰い残月』は3本足で悠然と広場の縁を巡り始める。
時に敢えて堂々と木陰の前に出て歩く姿は、まるで「撃ってみろ」と蓮華を挑発しているかのようだった。
(――――クッ……!)
蓮華は引き金に指を掛けながら、撃ちたい誘惑に必死で抗った。
蓮華に自覚はなかったが、その駆け引きはガリガリと彼女の精神力を削っていた……。
悪賢い熊が蓮華の周りを1周し終え、始めの場所に戻ってきたときのことだ。
熊は唐突に、くるりとUターンして逆向きに走り出した。
(――――来たっ!)
遂に仕掛けてくる。蓮華は、その兆候を敏感に察した。
しかし、『残月』は円周の軌道に沿って更に加速する。このまま行けば、明後日の方向――森の奥に突き進んでしまうだろう。
(――――……まさか、ここまで来て逃げる気……ッ!?)
蓮華が焦りを感じたそのとき、熊が前方の木に向かって跳躍した。
「――――なっ!?」
蓮華は一瞬、呆気に取られた。
熊は空中で体勢を変えて木の幹に着地し、三角跳びの要領で急角度での方向転換を果たしたのだ。
――さながら、パルクールの名選手のような動きだった。
蓮華が気を取られたのは、ほんの一瞬のことだった。
……しかしその一瞬で、黒い獣は蓮華の眼前に迫っていた。
「―――ゥグルルアァァッッ!!」
牙を剥き出しにし、猛然と吠える『人喰い残月』の姿は、実際より何倍も大きく見えた。
蓮華は恐怖を押し殺し、無我夢中で愛銃の引き金を絞った。
しかし、放たれた銃弾は熊の脇腹を掠めて、彼方へと飛び去った。
(――――あぁ……。私、死んじゃった…………)
その瞬間、蓮華の中で張り詰めていた糸がぷっつりと切れた。
(――――父さん、由美、剣持さん…………)
蓮華の脳内で、これまで生きてきた22年の歳月が何万倍もの密度で再生される。
(――――ごめん…………)
――次の瞬間、黒い獣の巨体が彼女の体を押しつぶした。




