第22話 追う者と追われる者
――7月末。
不動蓮華や山脇由美の通う大学で、春・夏の学期が終わろうという頃。
「嘘でしょ! また、休学するのっ!?」
由美の大声が、真新しいカフェテリアの店内に響き渡った。
その声は、周囲の注目を集めていた。
〝――秋・冬の学期は、丸々休学しようと思ってる〟
蓮華からその衝撃的な言葉を聞いた由美は、思わず椅子から立ち上がっていた。
2人は今、キャンパス内に新設されたばかりのカフェテリアの席にいた。
ちょうど今日、蓮華は今学期最後の試験を終えたところだった。
蓮華は由美の反応に対し、眉根を寄せてバツが悪い顔で頷いた。
その態度を見た由美が、眉をきりりと吊り上げる。
「殺人熊なんか、どうだっていいじゃん! 一緒に卒業しようよ!」
由美は周囲の反応も気にせず、大声でまくし立てた。
蓮華は眉間にシワを刻み、心苦しそうに言う。
「――――私は〝熊撃ち〟の娘だから……」
それを聞いて、由美はドカッと椅子に腰を下ろした。
「ばっかじゃないのっ! ――日本中の熊を殺して回るつもりっ!?」
もっともな言葉だった。
蓮華は返すべき言葉を探すように、視線をさ迷わせる。
「……そうじゃないけど……――でも、いま岩手と秋田で起こってる事件は解決したいの」
由美は腕を組み、蓮華をキッとにらみつける。
「なんで蓮華がそんなことしないといけないのよ!」
――このとき、2人の〝修羅場〟を目前にして、飲み物を運んできたウェイターが困り果てていた。
「……『残月』かもしれないの」
ぽつり、と蓮華が言った。
「『残月』ぅ?」
由美の目つきは、彼女の疑念を雄弁に語っていた。
そこで蓮華は、なぜ自分がそう考えるに至ったかを語って聞かせる。
――この2か月、一連の熊害事件を起こしたのが『人喰い残月』だと考えられる、彼女なりの根拠を。
いつもは何事もはっきりと喋る蓮華だが、このときは由美の剣幕に負け、珍しくしどろもどろになっていた。
それでも由美は、根気よく蓮華の話を最後まで聞いた。
……この間に、ウェイターは素早く飲み物を彼女たちのテーブルに並べ、逃げるように走り去った。
ひと通り話を聞いた上で、由美の結論は――――
「――バカバカしい。そんなおかしな熊、いるわけないじゃない」
極めて常識的な判断だった。
蓮華はそれを聞いて、物憂げに目を伏せる。
「そうよね……。そう思うよね……」
いつになくシュンとした蓮華の様子に、由美は一瞬たじろぐ。――が、その直後には、毅然とした態度を見せていた。
「――とにかく、私は反対よ!」
この日の2人の会話は、平行線を辿った。
††
――約1週間後の朝。
2度目の休学手続きを終えた蓮華は、アパートを出て部屋のドアに鍵を掛けた。
彼女は、登山用の大きなリュックを背負っていた。
これから蓮華は、『人喰い残月』かもしれない熊の足取りを追うのだ。
後戻りを避けるため、6月に起きた最初の事件現場から順に辿るつもりだ。
――きっと、相当の長丁場になるだろう……。
蓮華は深呼吸をして、改めて覚悟を決めた。
蓮華がバス停に到着すると、ベンチに若い女性が腰掛けていた。
その女性の顔を間近で見て、蓮華は息を呑んだ。
「――由美……」
紛れもない、蓮華の友人――由美だった。
先週、カフェで喧嘩別れをして以来、蓮華は由美と顔を合わせていなかった。
――――もう、愛想を尽かされてしまったかもしれない。
蓮華はそう思っていた。
それでも蓮華は一応、今日出発することを由美に伝えていた。
しかし、まさかここまで来てくれるとは思いもしなかった。
蓮華が由美に気づくと同時に、由美はベンチから立ち上がった。
由美が蓮華と顔を向き合わせる。
唇を引き結んだ由美の表情は、むっとしているようにも見えた。
「…………言っても聞かないところは、相変わらずなんだから…………」
由美の口調には、やや諦めの心情がにじんでいた。
「……ごめん」
蓮華は顔を俯かせ、短く謝罪した。
由美は小さな溜め息を吐く。
「――今回は、ちゃんと事前に教えてくれたから、まあ良し」
その由美の言葉を聞き、蓮華はハッと顔を上げた。
蓮華の脳内で、以前に由美から言われた台詞が思い起こされる。
〝――次、勝手にいなくなったら絶交だから〟
由美がこれを告げたのは、蓮華が前回の休学から復帰して2、3週間が経った頃だった。
「…………」
蓮華が言葉に詰まっていると、由美が一歩距離を詰めて来る。
「――はい、これ」
「?」
由美は蓮華に有無を言わさず、持っていた物を手の中へと押し付けた。
蓮華がその手を持ち上げて開くと――そこには、「厄除」と書かれた御守りがあった。
市内にある盛岡八幡宮の御守りだった。
由美は今日、これを蓮華に手渡すために用意していたのだ。
「ありがとう……」
感謝を言葉にした後、蓮華は胸がじわりと暖かくなるのを感じた。
「――帰って来ないと、承知しないからね」
由美の言葉に、蓮華は顔をくしゃっと歪めて頷く。
「うん!」
蓮華のまぶたの縁には、きらりと光る物があった。
†††
――――月日は瞬く間に流れ、200Z年の1月。
仙台市内にある、とある一軒家で。
中学2年生の少年が、朝食を食べながらテレビのニュースを観ていた。
彼は既に制服を着込んでおり、学校に行く直前だった。
「――うえぇっ……」
少年は突然、不味いものを口にしたかのような声を上げた。
料理の問題ではなく、観ていたニュースの内容の問題だ。
「なにさ、その声は」
キッチンに立っていた母親が不機嫌な声を上げた。
「ああ、いや……。とうとう、宮城でも殺人熊が出たみたい」
「あら、そうなの……」
息子の返事を聞いて、母親は納得した。
一昨年の春から急に増えだした、熊による人身被害。
200X年は岩手県の凌雲平に集中していたが、昨年は岩手・秋田両県の広範な地域で被害が発生していた。
この2年間、全国で熊による怪我人の数は大きく変わっていないのに対し、死者の数だけが激増していた。それも、なぜかこの2県に集中していた。
悪名高い凌雲平の熊は、200Y年の4月に警察の手で駆除されたという話だ。……が、それ以降の熊害は地理的にそこそこ分散している。
そのせいで、自治体の対策は後手後手に回っている。
昨年末の時点で秋田や岩手の南の方でも被害が出ていたので、宮城でもいずれ出るのでは……とは危惧されていた。
――遂に、それが現実となったのだ。
ただし、この母親にとってその事件は、相変わらず日常から遠くかけ離れた出来事に過ぎなかった。
「……山さ行く用事なんかねぇべ? あんたには関係ないっちゃ」
少年にとっても、基本的にそれは変わらない。
――が、この時期の彼には、1つだけ気がかりなことがあった。
「いやいや……スキー教室があるんだって」
「……そうだっけ」
息子の言葉を聞いて、母は洗い物をしていた手を止めた。
「ま、まあ……。なんぼなんでも、一回熊が出た場所なんか行かねぇべさ」
母親の言葉は正しい。
冷静に考えれば、学校側が生徒を危険な場所に連れていくはずがなかった。
「行きたくねー……。休んでもいい?」
もともとスキー教室に後ろ向きだった少年は、これを口実に休めないかと考えていた。
ところが――
「ダメだっちゃ。内申点、下がっちまうべさ」
母親の言葉は、にべもなかった。
「……だよね。はあ……」
食事を終えた少年は、溜め息を吐きながら立ち上がる。
「……行ってきまーす」
挨拶を告げ、上着と荷物を持って玄関に向かう。
外は気温0度。風邪を引かないように、気合を入れる必要があった。
――ややあって、洗い物を終えた母親がダイニングルームに戻って来る。
彼女はテーブルの上を何気なく眺め……――血相を変えた。
彼女はそこにあった〝ある物〟を慌てて掴み、バタバタと玄関へ駆ける。
「――――将未! お弁当!」
†††
――――とうとう、ここまで来たか…………
気づけば200Y年も過ぎ、200Z年になっていた。
俺は今、ある山の頂上付近にいる。……当然、人通りのないところを選んでいる。
岩手、秋田、そして――宮城。
3県の境界にそびえ立つ標高1600メートルの山。
それがここ、栗駒山だ。
眼下を望めば、山裾に向かって広がる真っ白な森の向こうに、人の住む街並みが見える。
…………熊になって、文明社会から離れて、もう1年と9か月ぐらいか…………
《――マサミ、帰リタイ……?》
ふと、ミカヅキにそんなことを訊かれた。
〈いや……〉
俺はその問いを否定する。
〈――少し、懐かしい気持ちになっただけだ〉
この場所からは、故郷の仙台は見えない。
当面は南下をやめ、近辺を根城として活動する予定だ。
――そもそも、この世界にも「俺」がいるのかどうか知らないが……――会うつもりもなければ、その意味もない…………
この土地を新たな根拠地に選んだことには、明確な理由がある。
栗駒山から西に15kmも進めば、山形県との境界があるのだ。
つまり、この一帯で活動することによって、俺は4県に跨って人間社会に危害を加えられるというわけだ。
これだけ動き回っていれば、人間側も対策を取りづらいだろう。
行政区が分断されているから、ロクに連携も取れないはずだ。
もちろん俺だって、ぐるぐると同じルートを周回したり、獲物以外の人間にむやみに姿をさらすような馬鹿なマネはしない。
――俺が同一犯だとバレたら、一巻の終わりだからな。
……たぶん、この2年以内に熊害で出た死者の8割の元凶は、俺だろ。
見てろよ……。
今は東北だけだが、そのうち日本中を恐怖で震えさせてやる。
――――この熊としての生が、続く限り…………。




