第21話 残月の呪い
【お知らせ】
(2026-05-25)18話の中盤に加筆をし、本作における200X年の国内熊害状況について言及しました。また、前話の副題を「残月の果て」→「泡沫の日々」と変更しています。
『――今朝のニュースです。……奥羽山脈の北部で熊が凶暴化し、人を襲う事件が頻発しています。被害は岩手県と秋田県に跨っており、自治体は警戒を呼び掛けています。山で熊を見かけた際はくれぐれも――』
盛岡市内の狭いアパートの一室で。
ラジオから流れてきたニュースを聞いて、不動蓮華はチャンネルを変えた。
4月のあの合同作戦以来、蓮華は無意識に熊害に関するニュースを遠ざけていた。
――もう、自分には関係ない。
その無自覚な思いは、今は悲しい記憶に蓋をしておきたいという、現実逃避に近いものだった。
身支度を整え、アパートから大学へと出発する。
現在は、200Y年の7月。
蓮華が大学に復帰してから既に2か月が経っていた。
前学期に休学で落とした単位を取り直すため、蓮華は大学に入学した当初と同じぐらい、真面目な学生生活を送っていた。
雪山での狩猟生活のような、肌を刺す緊張感や肉体的な負担はない。
それでも、それなりに忙しく充実した日々ではあった。
††
――昼休み。
蓮華は友人の山脇由美と談笑しながら、学生食堂に向かっていた。
「……あ、その講義なら私、去年取ってたよ。今度、過去問見せてあげる」
「ホント? ありがとう」
同じ学科に属する由美の申し出に、蓮華は笑顔で礼を告げた。
もうすぐ期末の試験期間――蓮華にとっては、今年度の卒業を占う正念場だ。
そんな蓮華の笑顔を見て、由美は目を瞬かせていた。
――蓮華は、変わった。
最近、由美はそう感じていた。
燃え尽きた灰のようだった5月のあの日から、一転して真面目に講義に出るようになった。以前は、淡々とそつなくこなしていた感じだったのに。
また、かつては人を寄せつけない孤高の雰囲気をまとっていたのに、今ではそれが鳴りを潜めていた。
ある講義では、1学年下の友人も出来たらしい。それを知ったとき、由美は心底驚いた。
こと社交性という点においては、好ましい変化だ。
由美はそれを認めつつ、ちょっとした違和感も覚えていた。
――彼女はまるで、無理をして〝何か〟から目を背け続けているような……
ただし、その違和感は由美の中で、まだはっきりとした言葉にはなっていなかった。
「うわっ」
学生食堂の一角にて。
2人で席に着いて、さあ食事を始めようというタイミングで、由美が驚きの声を上げた。
由美は携帯電話――まだこの当時はガラケー――の画面を見て、眉をしかめていた。
「……どうしたの?」
パスタにフォークを絡めていた蓮華に問われ、由美は顔を上げる。
由美は少し迷いつつ、先ほど目についたニュースの内容を告げる。
「――あ。……また、熊に殺された人が出たみたい」
蓮華の動きがピタリと止まる。
由美は正直に回答したものの、熊という単語に蓮華がどんな反応をするか不安に思った。
しかし、由美の予想に反して、蓮華は――少なくとも表面上は――比較的平静だった。
「へえ……どこで?」
蓮華は若干悼ましげな表情を浮かべた後、由美に問い返した。
声のトーンは、よくあるニュースを聞いたときと大差なかった。
――なんだ、また熊か……。――とでも言うような反応だ。
そんな応答を得て、由美は内心でホッとした。
「えっとね、秋田の……乳頭温泉郷の近くみたい」
「あの辺りか……」
そこは凌雲平の山から南に20キロほど離れた、秘境と呼ばれる温泉の名所だ。
蓮華も生まれてから今日に至るまでに、2回ほどその地を訪ねたことがあった。
「――熊の写真もあるけど、見てみる?」
由美にとって、それは取るに足らない提案だった。
もし蓮華がここでこの写真を見なくても、この先ニュースなどで見る機会は十分にあると考えられた。
――それでも、蓮華にとって最大の〝きっかけ〟となったのは、この由美の行動だった。
「じゃあ……」
勧められるままに、蓮華は由美のケータイを受け取り、画面に目を向ける。
――瞬間、蓮華の時が凍りついた。
「――――う、そ…………?」
ややあって蓮華の口からこぼれたその言葉は、周囲の喧騒に紛れて誰の耳にも届かなかった。
その熊の写真が目に入った瞬間、蓮華は心の奥底に封印した感情が乱暴にノックされたように感じた。
切り刻んだポークソテーを口に運ぼうとしていた由美は、ふとケータイを受け取った蓮華が何のリアクションも返さないことに気づいた。
由美は蓮華の様子を見ようと顔を上げて――ギョッとした。
蓮華は、由美が渡したケータイの画面を食い入るように見つめていた。
「ど、どうしたのよ、蓮華……? ――まるで、親の仇でも見つけたみたいな顔じゃない」
その由美の台詞は、図らずも的を射ていた。
鋭い視線で画面を睨みつけながら、蓮華がポツリと言う。
「……………………『残月』…………」
その単語を聞いて、由美も動きを止めた。
「――えっ……?」
由美は、己の耳を疑った。
「……ざ、『残月』って、まさかあの――――?」
凌雲平を「魔の山」に変えた怪物――『人喰い残月』のことなのか?
「…………」
そんな由美の言外の問いに、蓮華はすぐに返事ができなかった。
かつて蓮華が何度も記録映像を確認し、一度は肉眼でも捕捉した『人喰い残月』の姿。画面に映った熊は、それに酷似している――蓮華は、ひと目見てそう直感した。
判断材料となったのは、大柄なシルエットと特徴的な胸の三日月形模様だ。
…………とはいえ、ガラケーの画面サイズは小さく、画像は鮮明ではない。
蓮華にとっても、確信には及ばなかった。
「…………いえ。――――そんなはず、ないわね…………」
言葉とは裏腹に、蓮華の表情は苦々しげだった。
(……全然、納得してなさそうね……)
蓮華にケータイを返してもらいながら、由美は彼女の心情を推し量った。
さすがに、蓮華の言葉を額面通りに受け取ることはなかった。
……とはいえ、『人喰い残月』はもう死んだはずだが――――
ここで由美は、とあるネット上の噂話を思い出す。
「……あ。『残月』と言えば――――」
『残月』の単語に、蓮華がピクリと反応を見せた。
「――最近の熊騒ぎって、『残月の呪い』とか言われてるみたいよ」
「へえ……」
由美の言葉に、蓮華は胡乱げな声を返した。
「残月の呪い」あるいは、「残月の怨念」――。
それは、ネット上の有名な巨大掲示板サイトを中心に、まことしやかに囁かれている噂だ。
――いわく、4月の作戦で捕殺された『人喰い残月』の怨霊が他の地域の熊に乗り移り、凶暴化させているのだとか……。
「……下らない。そんなこと、あるわけないじゃない」
蓮華は、その説を子供じみた怪談だと一蹴した。
「アハハッ……。まあネットの噂なんて、そんなもんよ。……ところでさ――」
会話はそのまま、次の話題へと移る。
蓮華は由美の話に相槌を打ちながらも、先ほど見た熊の写真が気になっていた。
まるで、胸の内側にしこりが出来てしまったかのようだった。
(――あの熊は『残月』……? でも、『残月』はもう…………)
蓮華の心中で、ぐるぐると黒い不安が渦巻いていた。
††
その日の夕方――。
蓮華は講義が終わった後、大学の図書館を訪れていた。
「――――やっぱり、似てる…………」
PCを操作する蓮華の目前で、直近の熊害事件で目撃された熊の写真がモニターに大きく表示されていた。
蓮華が見たところ、その熊はやはり『人喰い残月』にそっくりだった。
――しかし、被害者の遺体に食害の痕跡はなかったという。
ツキノワグマとの遭遇でよくある、出会い頭の事故――ニュース記事では、そのような見解が述べられていた。
(手口が違う……。――やっぱり、別の個体か……)
それは、6月に起こった3件の熊害事件でも同様だった。
それらにおいて、被害を出した熊の姿は確認されていない。
……とはいえ、少なくとも〝人喰い熊〟の仕業ではないことは確かだった。
――やはり、直近の熊害事件は『人喰い残月』とは無関係だった。
その結論を得て、蓮華は押し殺した溜め息を吐く。
(……馬鹿々々しい。――何やってるんだろ、私……)
PCから離れて、試験勉強でもしよう。
そう思った蓮華だが、ふと1つ気になったことを思い出した。
(そういえば――――)
蓮華はWebブラウザで日本地図のサイトを開き、6月以降の事件が発生した場所を入力していく。
そして、ある事実に気づく。
「――――徐々に、南下してる…………?」
6月に発生した、3つの熊害事件――。
そして、新たに発生した秋田の事件の発生現場を結ぶと、奥羽山脈をジグザグに南下する折れ線が地図上に描かれた。
一直線ではないが、その線を逆に辿ると――――
「…………まさか、凌雲平から――――?」
――ぞくり、と蓮華は寒気を感じた。
そのように、見えなくもなかった。
ここで、蓮華の脳内で一瞬にして恐ろしい仮説が浮かび上がる。
「――――そんな…………っ!」
蓮華は叫び声を上げそうになり、慌てて片手で口を覆った。
……隣の席にいた学生が、怪訝そうに蓮華の顔色を窺っていた。
蓮華は自ら想像した仮説を否定するように、何度も首を左右に振る。
その瞳は、涙で潤んでいた。
――――そんなはずはない。
『人喰い残月』がまだ生きていて、移動しながら人を殺し続けているなんて…………!
それは、あまりにも短絡的で、あり得ないはずの仮説だ。
きっと、誰に話しても一笑に付されるに違いない。
――それに、遺体は食害に遭っていなかったのだ。
『人喰い残月』なら、必ず遺体の血肉を貪っていたというのに。
……だから、この一連の事件が『残月』の仕業であるはずがない。
蓮華は改めてそう結論づけ、昂った感情を落ち着かせようとした。
†
蓮華はPCからログアウトし、足早にその場を離れる。
(――今は、試験やレポートに集中しなくちゃ……)
そう思った。
(…………でも――――)
そんな蓮華の脳裏に、新たな疑念が浮かぶ。
蓮華が思い出したことは、主に2つ。
一つ、3月に凌雲平市の町中で猛威を振るった『人喰い残月』の悪虐な振る舞い。――それは人間の知能犯さながらの、法律を逆手に取った大胆な殺戮だった。
もう一つは、生前の修悟の言葉――――
『――「残月」のヤツは、恐ろしく頭の回る熊かもしれねぇ』
それらを踏まえて考えれば――――
(…………あの『悪魔』だったら、もしかしたら――――)
その程度の〝偽装工作〟は、お手の物なのではないだろうか――――?
蓮華は、その疑問を誰にも相談することができなかった。
†††
その日から、約1週間後――――。
東北地方で、新たな熊害による人身被害が発生した。
自治体による注意喚起も虚しく、また新たに1つの人命が失われた。
その現場は――秋田駒ヶ岳。
乳頭温泉郷から、4キロほど南下した地点だった。
――被害者の遺体には、はっきりと食害の跡が刻まれていたという…………。




