第16話 熊撃ち vs 残月(上)
200X年12月下旬――。
真っ白な雪に覆われた山道を、ライフル銃を抱えた猟師が登っていた。
カーキ色のハンティングキャップとベストを装着した、ベテランの猟師だ。
ここ凌雲平で〝最高の熊撃ち〟と呼ばれるハンター、不動修悟である。
11月半ばに今季の狩猟が解禁されて以来、修悟は毎日のように凌雲平の山に入っていた。
修悟が狩る獲物は熊に限らない。――というか、猟期は熊の冬眠期間と重なっているため、むしろ熊に出くわす方が珍しい。
しかし、猟に出た修悟の頭の片隅には、常にある熊の存在があった。
(……『人喰い残月』……)
――そう。
8月に「修悟が仕留めた」と勘違いされてしまった、あの食人鬼だ。
『……まだ、終わってねぇかもしれねぇ。――あれが「残月」だっつう証拠はどごにもねぇ』
修悟がかつて愛娘――蓮華に語った不吉な予想は、正鵠を射ていた。
7月下旬に入って、一時は落ち着いた熊による食人騒動。
それは、10月に入って再燃した。
――まるで狡猾な人喰い熊が、ほとぼりが冷めるのを待っていたかのように。
それから11月までの1か月余りで、また4人の人命が失われた。
事件が起こった場所は、以前の霧谷町よりもやや南側の地域に集中していた。
修悟の住む集落を通り過ぎたのは幸いと言うべきか……。
『――前回とは、別の個体だと考えられます』
凌雲平市の担当者は初め、そんなことを言っていた。
(――何を馬鹿な……)
というのが、それを聞いた修悟の感想だった。
(あんなにずる賢くて残忍な熊が、何頭もいでたまるか)
――俺らは夏、しくじったんだ。
修悟は10月に最初の熊害事件が起こった際、誰よりも早くその事実を認めた。
日本で過去にあった熊による人身被害――その中で最悪のものは、1915年に北海道で発生した「三毛別羆事件」だ。
この事件では、ある開拓村を同一のヒグマが2度にわたって襲撃し、7名の命を奪った。
単一の事件としては、今なお日本獣害史に残る最悪の惨劇だ。
一方の『人喰い残月』によって、これまでに殺されたと見られる人の数は、9。
――つまり『人喰い残月』は、既に単一個体としては過去最悪の害獣に成り果てていた。
(あんな奴は、絶対に生かしちゃおけねぇ)
――巣穴を突き止めてでも殺してやりたい。
修悟は真剣にそう思っていた。
……ただし、今の『残月』が帰るべき巣穴を持っているのかはわからない。
この日の修悟には、1つの期待があった。
†
『――煉獄沼の方でよ、大きな熊さ見ただよ』
3日前、修悟が猟師仲間から聞いた言葉だった。
煉獄沼――名前は大げさだが、実態はただの天然温泉である。
名所の1つではあるが、断崖の中腹にあって通行に危険が伴うため、人の立入りは禁じられている。
(――12月も下旬だというのに、冬眠していない? ……「穴持たず」か?)
猟師の言葉を聞いた修悟は、まずそれを疑問に思った。
「穴持たず」とは、冬眠をせずに冬を越す熊のことだ。
珍しいが、いないこともない。
「穴持たず」は大抵、腹を空かせていて凶暴なため、出くわさないように注意が必要だ。
修悟ほどの熊撃ちであって初めて、〝格好の獲物〟と呼べるかもしれない。
目撃した猟師によれば、その熊は『人喰い残月』に匹敵する大きさだったとのことだ。
(『残月』が「穴持たず」に……?)
……なんとなく、イメージには合う。
修悟はそう思った。
――人の血に飢えた『残月』と、空腹な「穴持たず」。
相性は良い――いや、相対する人にとっては、極悪の組み合わせかもしれない。
修悟はその猟師から目撃時の詳しい状況や時間帯の情報を聞き出し、この3日間、当たりをつけて調べていた。
この日も修悟は、煉獄沼がある崖の対面の山腹に到着する。
ここから崖を見下ろせば、煉獄沼がすっぽりと視界に収まった。
距離は約150メートル。
この距離であれば、修悟は熊の眼球でさえ撃ち抜く自信があった。
修悟は煉獄沼から漂う硫黄の臭いに鼻をひくつかせながら、熊が現れるのを待った。
「……来ねぇか」
絶好の狙撃ポイントで待機すること1時間。
今日も熊は現れなかった。
諦めて帰るか――そう思い、修悟は自分が居る側の山の上方に視線を移す。
修悟はそこで、目を見開いた。
100メートルほど先の木立の隙間から、熊の成体の姿が見えた。
大きさははっきりとはわからないが、胸にはツキノワグマを特徴づける白い三日月模様が描かれている。
修悟の全身が粟立った。
(『残月』か? ……いや、どっちでもいい)
――この距離なら、殺れる。
修悟は高鳴る心臓を鎮めつつ、素早くライフルのセーフティを解除する。
スコープから熊の眉間に狙いをつけ、必殺の弾を放った。
†††
――あの日の冬山で起こったことは、忘れられない出来事の1つだ。
200X年の冬のことだ。
記憶違いでなければ、年の暮れも近い頃だったはずだ。
俺は、いわゆる「穴持たず」の熊とやらになってしまった。
秋の間に、ミカヅキと一緒に栄養はたっぷり摂っていた。
――後は、巣穴で寝て過ごすだけ。
そう思っていた。
どの道、冬には狩猟が解禁され、猟師たちが山に来る。
冬眠は合理的な行動だ。
なのに――――
(これ以上ここにいたら、気が狂いそうだ……)
俺の精神は、長時間何の刺激もなく暗闇の中で過ごすことに耐えられなかった。
ミカヅキと会話して時間を潰すのにも限界があった。
熊の冬眠は、小動物のそれとは話が違う。
眠りは浅く、意識を完全にシャットダウンすることはできない。
冬眠を試みて2晩が過ぎた後、俺はとうとうミカヅキに泣きを入れた。
〈――悪い、ミカヅキ。少し外に出させてくれ〉
《……エサハナイゾ……?》
ミカヅキは困惑していたが、強く反対はしなかった。
煉獄沼という天然温泉の存在は、前世から知っていた。
青森にある地獄沼は、その名に違わず生き物が生存できないほどの強酸性の熱湯らしい。一方の煉獄沼は、名前負けかと思うほどごくふつうの温泉だ。……人が入ることはできないが。
ときどき、野生動物たちの憩いの場になっている風景が、ニュース映像などの形で流れることがあった。
前世では結局、訪れる機会はなかったが――
《――ソコ、知ッテルト思ウ》
なんと、ミカヅキが温泉の正確な在り処を知っていた。
どうやら、寒い日でも暖が取れる場所として認識していたようだ。
俺がミカヅキに煉獄沼への行き方を教えてもらったのは、この年の9月頃だ。以来、俺はときどき温泉に入ることを密かな楽しみとしていた。
寒い冬にはやはり温泉……ということで、冬眠に失敗したこの冬、俺はときどき煉獄沼に足を伸ばしていた。
煉獄? ――いいや、極楽だな。
そんなある日のことだ。
俺は3日ぶりに煉獄沼の方へ向かっていた。
特に時間を決めてはいなかったが、前回より少し遅い時間になったかもしれない。
〈――そっちは遠回りじゃないか?〉
《ドングリ、落チテルカモ……》
体の運転をミカヅキに任せていたところ、食い意地を張って寄り道をしていた。
……まあ、「穴持たず」になったのは俺のせいだし、別に急ぐ用事もないが……。
〈……うん?〉
ふと、視界に何かが映った気がした。
《マサミ、何ガ――――》
ミカヅキが、そんな俺の様子に気づいたところだった。
――――バァァンッッ
耳を劈くような凶砲の音が、雪山に響き渡った。




