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残月記 〜人喰い熊に転生した男の残酷な復讐劇〜  作者: 卯月 幾哉


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第14話 山の神の使い

 これはまだ、世間で『人喰い残月』という呼称が生まれるより少し前の話だ。


〈――俺は元々、人間だったんだ〉

《……ソウカ》


 ある大柄な雄のツキノワグマの頭の中で、2つの魂が対話をしていた。


 片やこの熊に本来備わっていた魂、片や元人間の魂である。


〈……驚かないのか?〉


 元人間――望月将未(まさみ)という名前を持っていた男の魂が、熊の魂に(たず)ねた。

 将未にとって、熊の反応は思ったよりも淡白なものだった。


《オドロク……?》


 将未によって「ミカヅキ」の名を与えられた熊の魂は、小首を傾げるような反応をした。

 この勤勉で利口な熊の魂は、既にある程度の日常会話なら十分こなせるようになっていた。


《小サナコトダ》


 大したことではない――ミカヅキはそう言っていた。

 将未はそれに気づき、肩透かしを食らったように感じた。


 将未は知らなかった。


 ミカヅキにとって、自分がどのような存在として認識されているのかを――




    †††




 ミカヅキにとって将未(まさみ)の出現は、それまでの熊としての生を一変させる青天の霹靂(へきれき)だった。



 冬眠から目覚めた直後から、ミカヅキは自分ではない何者かの気配を感じた。それは自分のすぐ傍におり、目に付くもの、口にするもの全てに驚いているようだった。



 ――不思議な、山の精霊。



 言うなれば、そのような存在だった。


 精霊はミカヅキよりも情緒が豊富で、あらゆるものに大げさに反応した。ミカヅキは、それを新鮮な刺激と感じた。


 大きな変化があったのは、水浴びをして川面に映った自分の姿を見つめたときだ。



 ――全身が、凍りついたかのように動かなくなった。



 精霊の受けた強い精神的なショックに、ミカヅキの肉体も同調していた。


 ミカヅキは混乱したが、恐怖はなかった。

 精霊に害意はないとわかったからだ。


 それからミカヅキは、精霊の中で沸々(ふつふつ)と沸き上がる感情の存在に気づいた。


 ――それは、激しい怒りだった。


 精霊はミカヅキの肉体を奪い、何度も何度も川面を叩いた。


 精霊より自我の薄いミカヅキには、何の抵抗もできなかった。


 その無意味な行為を精神の内側から眺めながら、ミカヅキはおぼろげに思った。


 ――何をそんなに怒っているのか、と……。


 やがて精霊が疲れてその行為を止めた後、ミカヅキは体の自由を取り戻し、元の巣穴まで帰った。


 夜が明けても、精霊は変わらずそこにいた。

 そのとき、ミカヅキの心にこの不思議な精霊に対する強い興味が湧いた。


 ――――知リタイ。コノ者ガ、何者ナノカヲ…………


 ここで起こった言葉にならない欲求こそ、ミカヅキが知恵を獲得するきっかけだった。




 精霊は、知識が豊富だった。

 ミカヅキは精霊の言葉から、ふだん接する物に「名前」というものがあると学んだ。


 精霊もまたミカヅキの視界を通して世界を観察し、ミカヅキに意図せずそれを教えていた。


(ああ、あれはセリだな……)

(これは、ミズだったかな……)

(ブナの木だな。そんなに新芽をバクバク食ってたら、木が育たないぞ……?)

(うえぇ、こいつアリ食ってやがる……。土が混ざって気持ち悪ぃ……)


 それはミカヅキにとって、閉ざされた狭い世界の壁を取り払うような出来事だった。

 ミカヅキにとって、世界の在り方が根底から変わった。


 ――空。川。山。森。


 あらゆるものは名前を持ち、それに相応(ふさわ)しい意味を持っているのだ。


 それまでのミカヅキにとって、全てはただそこにあるだけの存在だった。

 ミカヅキ自身も例外ではなく、「山」という大きなシステムを構成する一個体でしかなかった。

 そこに何の疑いもないが、大きな情動もない。

 ある意味で、荒涼とした無味乾燥な世界だった。


 しかし、精霊――将未が知恵を授けてくれた今は違う。


 ミカヅキの目に映る世界は、鮮やかに色づいていた。


 ――あらゆる知識を持つ精霊とは何か?


 ミカヅキにとって、それは尋常(じんじょう)の生命の枠を超越した、理外の存在だった。


 ――即ち、〝神〟だ。


 このことから、ミカヅキの中で将未はただの精霊ではなく、〝山の神の使い〟という認識に改められた。



    †



 将未と出逢った次の日、ミカヅキは将未の導きに従って山を下った。


 そこでミカヅキは初めて、人間が造ったという恐ろしい乗り物――自動車を目にする。

 ソレは不気味な振動音を発し、尻から不快なニオイを放っていた。


 ――ひと目見て、勝てないと直感した。


 ソレはミカヅキより何倍も大きく、動きも速かった。見た目も頑丈そうで、正面からぶつかったら分が悪いと感じた。


 だが、ミカヅキは気づいた。

 ――そんな自動車を見ても、将未は全く恐怖を感じていない、と。


 このときミカヅキは、将未に新たな畏敬(いけい)の念を抱いた。




 一方でこの山神の使いは、ミカヅキより繊細で傷つきやすい一面も持ち合わせていた。


 将未は人間の「雑誌」という物から何かしらの情報を得た際、大きなショックを受けていた。

 それからミカヅキがふだん通りの暮らしを送る間に、将未は色々な考え事をしていた。


 その内容は当然、ミカヅキに理解できるものではなかった。――が、ミカヅキは段々と将未の魂が黒い闇に染まっていくのを感じた。


 ――マズイ……


 ミカヅキは本能的に危機を感じた。


 その闇が将未の魂を覆い尽くしてしまったら、きっと取り返しのつかないことが起こる。――そう予感した。


 ミカヅキの精神は、意識の変革を迫られた。

 それまでは山神の使いの導きに唯々諾々(いいだくだく)と従っていれば良かった。

 ――しかし、この闇に引きずり込まれたら、どちらも助からない。……そう悟った。


 それを防ぐには、ミカヅキ自身が将未に相対し、訴える必要があった。



 ――ア、アア……



 ――コレガ、オレ(・・)カ……



 それはまだ、明確な言葉にはなっていなかった。

 だがこのときこそ、ミカヅキにただの獣とは異なる明確な〝自我〟が芽生えた瞬間だった。


 ミカヅキは生まれたばかりの自我を総動員し、将未の魂に向き合った。

 そして、必死で訴えた。


 ――安心しろ

 ――自分は、ここにいる


 と。


 言葉を持たない自分の祈りが、どんな形で相手に伝わったか……ミカヅキには、わからなかった。


 だが、気づけば闇は後退し、将未の精神は落ち着いていた。


 ミカヅキは、将未の魂が眠りにつくような気配を感じた。


 ――後は任せろ


 そう思い、ミカヅキはひとつ吠え声を発した。



    †



 ややあって、幾分か心が穏やかになった将未は、ミカヅキにこの上ない贈り物をしてくれた。


〈……お前の名前、「ミカヅキ」でいいか?〉


 そう。

 ミカヅキに名前をくれたのだ。


 ミカヅキは歓喜した。

 自分が将未の中で、世界の一員として認めてもらえた気がした。


 それからミカヅキが魂の世界で初めて言葉を発するまで、数日とかからなかった。


〈――ミカヅキ、あの夜空の月が見えるか?〉


 あるときミカヅキは、自身の名前の由来となったものの存在を知った。

 将未によれば、それはミカヅキと同じ種族の名前の由来でもあるそうだ。


 ――なんと素晴らしい名前なんだろう


 ミカヅキはこのとき、自分の名前に強い誇りと愛着を抱いた。




《――オマエノナマエハ……?》


 あるときミカヅキが訊ねると、将未はうっかりしていたというような反応をした。


〈ああ……そういえば、自己紹介とかしてなかったな〉


 そんな言葉の後、将未は自身の名を告げた。


将未(まさみ)だ。……苗字は、まあ、もういいだろ〉

《マサミ……》


 ミカヅキの中で、自然と次の疑問が湧いた。


《「マサミ」ハ、ドンナ意味……?》

〈えっ、意味……?〉


 将未は意表を突かれた。

 そんな質問をされるとは、考えもしなかった。


〈――未来に向かって挑戦する……そんな意味だな〉

《ミライ……「ミライ」トハ?》

〈ああ、未来っていうのは――〉


 熊であるミカヅキにとって、「未来」という言葉の概念は少し難しかった。

 ――が、それは冬眠をして春を待つようなことだ……と、なんとなく理解できた。


 後に、将未が「月の輪」と同じ意味を表す「望月」という名も持っていたと知り、ミカヅキは将未に対していっそう強い絆を感じた。



    †



 ――将未には、大きな目的がある。


 初めて将未から明確に協力を頼まれたとき、ミカヅキはうっすらとそれを察した。


 「拒む」という選択肢は(はな)からなかった。


 ミカヅキにとって、将未の願いとは山の神の意思に等しかった。

 何よりミカヅキ自身が、将未の願いを叶えることを強く望んだ。



 ミカヅキは、瞬時にして天啓のごとき悟りを得た。


 ――将未を助けることが、自分の使命だ、と。


 ――自分のこの生まれ持った立派な体躯(たいく)は、きっとそのためにあるのだ、と。


 その心の在り方は、人の世界における信仰にも似ていた。



    †



 ――将未はかつて、人間だったという。


 その事実を知っても、ミカヅキの心は微塵(みじん)も揺らがなかった。


 ミカヅキにとって、将未が偉大な存在であることに何ら変わりはなかったからだ。




    †††




〈……そんなわけで、お前の――俺たちの同族もこれからたくさん死ぬことになるかもしれないんだが、いいのか?〉


 将未はその後も自身の〝計画〟について、ミカヅキが理解できる程度に噛み砕いた説明をしていた。


《ソレガマサミノ意思ナラ》


 そんなミカヅキの答えに、将未は困惑した。


(――なんでコイツ、こんなに物わかりがいいんだ……?)


 将未からしてみれば、自分にとってあまりにも都合が良すぎた。

 事が上手く行き過ぎると逆に心配になる――そんな人間心理が働いていた。


 そんな将未の心情の一部が、ミカヅキにも伝わった。


《マサミ、オレタチニ〝同族〟トイウ意識ハアッテモ、〝仲間〟トイウ意識ハナイ》


 そこでミカヅキは、その事実を伝えた。


〈そうか……。熊同士だからって、仲がいいわけじゃないんだな〉

《ソウダ。餌ガナクナレバ、争ウコトモアル》


 それを聞いて将未は納得し、安心した。


 ――どうやら、熊に遠慮は要らないらしい。


 そう理解した。


〈それじゃあ、これからもよろしく頼むぜ。相棒〉

《――アイボウ? ソレハドウイウ意味ダ?》


 ミカヅキは、新しい単語の出現に敏感に反応した。


〈……恥ずかしいから秘密だ〉

《ソウカ》


 はぐらかされてしまったが、ミカヅキは気にしなかった。

 悪い感情は伝わって来なかったから。




 ミカヅキはもう、心に決めていた。


 ――将未の願いを叶えるためならば、自分の全てをなげうっても構わない、と。


 ――この偉大な叡智(えいち)と繊細な心を宿した山神の使いを、自分がこの体で守るのだ、と。






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