第12話 「人喰い残月」
――凌雲平に、人を喰らう恐ろしい熊が現れた。
その事実は、岩手・秋田の両県民を恐怖させた。岩手の凌雲平市はもちろん、位置的に近い秋田の上津野市などでも徹底した注意喚起が行われた。
……だが、事件は終わらなかった。
地元農家の70代男性が殺害されてからわずか10日後、60代男性の登山愛好家が凌雲平を登山中に熊に襲われ、命を落とした。
熊鈴を身に着け、危険の少ない登山道を通行していたはずだった。
遺体には凄惨な食害の跡があり、農家の男性を襲った熊と同一個体と予想された。
2度の事件を受け、岩手県は凌雲平の山岳一帯を立入禁止とした。
……しかし、またしても事件は起こってしまう。
5月下旬、凌雲平の山中にて。
地元農家の70代女性が、熊に喰い殺された。
危険を冒して、地元の名物であるヒメタケノコの採集に赴いたのが原因だ。
凌雲平は魔境と化し、人が寄りつくことはなくなった……。
一連の事件を受け、地元のある週刊誌は原因と思われるツキノワグマの個体にセンセーショナルな異名をつけた。
それが――――
†††
「――――『人喰い残月』か…………」
盛岡市内にある大学の図書館で。
不動蓮華は今朝――7月19日の新聞を見ながら、ポツリと呟いた。
人を食べるツキノワグマということで、ある雑誌編集者が考えた異名がそれだ。
やや厨二病的な響きのあるその呼称は、全国区のテレビ局やラジオ番組でも取り上げられ、恐怖とともに人々の間に広まっていた。
「――あ、蓮華じゃん」
「由美」
閲覧席で新聞を広げていた蓮華のそばを、1人の女学生が通りかかった。
蓮華と同じ学科の同級生、由美だ。
「なあに? また『残月』が出たの?」
「ええ」
由美はごく自然に蓮華の隣に座り、同じ新聞を覗き込む。
そんな2人の様子を、別の学生が遠巻きに眺めていた。
凌雲平を訪れる人々が途絶えた後に起こったこと――それは、『人喰い残月』と見られるツキノワグマの、人里への侵入だ。
凌雲平市の西側に、霧谷という地名がある。
凌雲平へ続く登山道の入口であり、観光客向けのビジターセンターが建てられた小さな町だ。
6月以降、その町の周辺でたびたび凶暴な熊が目撃され、人々や家畜、農地に被害を出していた。
6月中旬には、ブドウ農園の見回りをしていた60代の男性が殺され、無惨な遺体となって発見された。
そして、7月半ば――――
「――うわぁ……小学校の先生が殺されちゃったんだ。子供たちからしたら、トラウマもんだね……」
新聞の記事を読んだ由美は、青ざめた顔でそう言った。
「本当ね……」
蓮華もそれには同意した。
白昼堂々、小学校の校庭に現れた凶暴な熊の姿に、児童たちは騒然となった。
逃げ遅れた児童を助けに向かった50代男性の教員は、熊の手に掛かって殉職することとなった。
幸い、児童には怪我はなかった。
だが勇敢な教員はその後、熊によって死体を弄ばれ、子供たちが見守る前で骨や内臓をさらけ出すグロテスクな姿に変えられたという。
親しく接していた教師が、悍ましい死骸を晒す……それを目の当たりにした子供たちのショックはいかほどだったか、蓮華には想像もつかなかった。
「蓮華の実家もこの近くだっけ?」
「……そうね。霧谷は歩いて行ける距離よ」
蓮華がそう答えると、由美の眉間にしわが浮かんだ。
「怖いね……」
「…………」
蓮華は、言葉を返さなかった。
(――怖い、のかな……?)
熊撃ちの修悟を父に持つ蓮華は、熊に対する恐怖心が麻痺していた。
熊は獲物――むしろ、そんな認識があった。
――もし修悟がそんな娘の内心を知ったら、子育てのやり方を間違えた、と激しく後悔したことだろう……。
「――いくつか、気になったことがある」
蓮華は、それを由美に話すことにした。
「なになに?」
蓮華は1人で黙々と考え込むタイプだが、由美はそんな蓮華から話を聞き出す名人だった。
「殺された人に、若い人はいない」
最後に殺された小学校の教員を含め、犠牲者は全員、50代以上の年代だった。
怪我人の中には20代の者もいたが、比較的軽傷だったようだ。
「そういえば、そうね」
由美はそれを認めつつ、次のような見解を述べる。
「……たまたまじゃない? ほら、田舎って年配の人の方が多いし。それに、体力がなくて逃げ遅れた人がねらわれた……とか」
「確かに……」
由美の意見も筋は通っている、と蓮華は思った。
……なので、議論を掘り下げることはしなかった。
蓮華は続けて、別の観点を挙げる。
「もう1つ――『残月』はわざと、人を残酷に殺してるみたい」
「それは……確かにそうかも」
『残月』は、明らかに普通のツキノワグマと異なっていた。
初手では頭部を狙うことも多いが、遺体は不必要に傷つけられていると見られることが多かった。
――とはいえ、蓮華や由美は実際に被害者の遺体を目にしたことはない。報道などで得た情報から推測しているだけだ。
「……やっぱり、あれなのかな? 『人間社会への怒りを〜……』ってやつ」
由美が言っているのは、最近近所で活動している動物愛護団体のポスターに記されている文言だ。
いわく、「ツキノワグマは被害者であり、人間社会への怒りを体現しているのだ」――という主張だった。
蓮華は呆れたように溜め息を吐いた。
「……熊は、そんなこと考えない」
「だよねぇ」
由美は苦笑いを浮かべた。
「――でも、この騒ぎももうすぐ収まるはず」
蓮華の台詞を聞き、由美は目を丸くした。
「え? そうなの?」
問い返す由美に、蓮華が頷く。
「うん。――父が、駆除を依頼されたから」
そう答えた蓮華の態度は、父――修悟に対する絶対の信頼を窺わせた。
凌雲平市はつい先日、県庁や警察とも協議した上で、危険な熊の排除に乗り出すことを正式に決めた。
自然保護団体など一部で反対の声もあったが、駆除を望む地域住民の声の方がより大きかった。
そこで白羽の矢が立ったのは、ベテランのハンターである蓮華の父――不動修悟だ。
「ああ……蓮華のお父さん、マタギの人だっけ?」
「そう」
不動家は、代々続くマタギの家系だった。
ただし、マタギの技と伝統は後継者不足によって、日本から失われつつあるのが実情だ。
近年の修悟は、ライフル銃を担いで単身で猟に出ることが増えていた。
「……そっか。じゃあ、これでひと安心かな?」
小首を傾げる由美に対し、蓮華ははっきりと首肯する。
「――うん。今まで父から逃げられた熊はいない」
「す、すごいお父さんなんだね……」
蓮華の言葉にはやや主観と誇張が含まれていたが、修悟が今まで数多くの熊を葬ってきた凄腕の熊撃ちであることは真実だった。
――『人喰い残月』も、〝熊撃ち〟不動には敵うまい。
近年稀に見るこの熊害騒動は、早晩収束するはずだ。
蓮華を始め、関係者の多くはそう思っていた。
だが蓮華には、ひとつの心残りがあった。
(――できれば、私が仕留めてみたかったな……)
『人喰い残月』が現れた当初から、そんな願望を抱いていたのだ。
†
このとき蓮華には、『残月』に関してもう1つ気になったことがあった。
……が、結局それを由美に語る機会を逃してしまった。
それは――――
(――養鶏場は、なぜか襲われなかった)
霧谷町の山間には、いくつか小さな養鶏場があった。
先の春休みに霧谷から凌雲平に登った蓮華は、それを覚えていた。
『残月』は、そこを通ったはずだ。
しかし、『残月』は養鶏場を素通りし、その先の農園や鶏以外の別の家畜を襲った。
なぜか?
……いくら考えても、答えは見つかりそうになかった。
(本当に、おかしな熊…………)
――とはいえ、もう考える意味もないだろう。
どの道、修悟によって間もなく駆除される運命の熊だ。
蓮華は、疑問を放り投げて忘れることにした。
蓮華は想像もしなかった。
この先、蓮華と修悟に待ち受ける、『人喰い残月』と呼ばれたツキノワグマを巡る因縁と運命の行方を――――




