4.悪女令嬢バニラ・ルーセント②
息が出来なかった。
人を凝視するなど失礼も承知だが、それでもすぐに目を逸らせなかった。
そのくらいーー絵画から、しかも国宝級の最高傑作から飛び出して来たと思わせるくらいには、伯爵令嬢バニラ・ルーセントは人間離れしていた。
一本だって乱れていない艶やかな長い黒髪、礼拝堂のステンドグラスよりも眩く魅惑的な意志を感じさせる瞳。
上背があり、腰は細いが出るべきところは出ている。派手なくらいに鮮やかな紫色のドレスがよく似合う。修道院という場所に合わせたのか、さすがに長袖に襟元まで詰まったデザインだったが。
凛とした佇まいは、貴族として必要な誇りが形を成したものに違いない。
一方、バニラ嬢は見られることに慣れ切っているのか、私に何かを言うこともなく視線が合うこともなかった。
今日はこの顔合わせがあるため、私の昼の炊事当番は免除されている。
修道院長様からの紹介の間も、バニラ嬢は口を開かなかった。この時点で私はすっかり圧倒されていて、彼女が「悪女令嬢」なんていう二つ名を持っていることなど、綺麗に忘れていた。
そう、この時点までは。
彼女にあてがわれた個室へ向かう。個室には昨日、バニラ用の修道女見習いの服を用意している。
修道院長様とは一旦お別れだ。
「それでは頼みましたよ、シスター・アリサ。わたくしはこれで失礼します。シスター・バニラ、よくシスター・アリサの言うことを聞くように」
バニラ嬢改め、シスター・バニラは修道院長様に淑女のものらしいお辞儀をした。関節が柔らかいのか、体幹が強いのか、一切の無駄がない滑らかな動きだった。
修道院長様が閉じた扉の軌道を目線で追って、バニラへ振り返る。
木の板が剥き出しの部屋には、簡素なベッドと書き物机が並んでいる。こじんまりとしているが清潔で、生活するには困らないはずだ。
「貴女、いつまでそこに突っ立っているの?」
「えっ、突……」
予期しないセリフの出どころは、確かにシスター・バニラだった。何故ならこの部屋には彼女と私しかいない。
突っ立つとは。
私はシスター・バニラに修道女服と部屋の使い方を案内しようとしていただけだ。
初めて目が合ったシスター・バニラは、私が「他の理由」で驚いたのだと誤解したようだ。しらけたように目線を下げ、自分の喉元に手を当てる。
「ああ、この声? 酒がれしてしまったのよ」
「さ、酒がれ……」
「酒を飲みすぎて喉が潰れてしまったってこと」
言われてみれば、シスター・バニラの声は低い。
馴染まない単語の連発に、開いたままの口をまともに動かすことが出来ない。
シスター・バニラは眉を顰めた。
「シスター・アリサと言ったわね。私に構う必要はないわ。この修道院生活、私は基本的にここに引きこもることにするから。必要以上の馴れ合いは必要ない。貴女にも何も求めない。だから貴女も私に求めないで」
「え、でも……!」
シスター・バニラは一刻も早く、私に出て行って欲しそうだ。
しかし、私にもやるべきことがある。たじろいでいる場合ではない。まずはきちんと言葉にして説明しなければと思い、実行した。
「私はシスター・バニラの助けになるためにここにいるのよ。まずは着替えをお手伝いしましょう。そこの聖書は必ず、肌身離さず身につけてね。修道女見習い用の頭巾を被らないといけないから、その髪もまとめた方がいいわ」
「ーー触らないで!!」
いきなり手を振り払われ、びくりと身体が揺れる。
怖かったわけじゃない、バニラの声のボリュームに驚いただけだ。
意外なことに、そんな私の反応にシスター・バニラは「しまった」という表情をした。
とはいえ、本当にほんの一瞬だったから、私の見間違いだったのかもしれない。
ぶしつけに彼女へ手を伸ばしたのは失礼だったのだろう。
他人に触られるのが苦手な人はいる。それに、とても大切に伸ばしてきた髪の毛だったかもしれない。
「あ、ごめんなさい……! 無理強いするつもりはなかったの。悪かったわ。本当にごめんなさい」
「……」
シスター・バニラは私を数秒睨んでから目を逸らした。
「言ったでしょう、私に構わないで。さっさと一人で着替えるわ。いいこと? それ以外はお互いの精神状態を保つために、干渉しないようにしましょう」
今度こそ、バニラは取り付く島もなく私を部屋から追い出してしまった。
まるで、心からも私を締め出すように。
カチャリと響くカギの音が虚しい。
修道院長様、メアリイ、……坊っちゃま。
この使命、思った以上に前途多難なようです。
✳︎✳︎✳︎
「あっ……!」
慌てて口を塞ぐ。それなりの声量を出してしまったが、今はもう夜だ。
ベッドに入りながらも、私はこれっぽっちも眠れていなかった。消灯時間はとっくに過ぎている。
今日は本当にーー
修道院生活では滅多にない、なかなか刺激的な一日だった。
そうこうしている内に、バニラに行水の説明をしていなかったことを思い出したのだ。水で身体を清めることは出来るかもしれないが、修道院内でお湯を使える場所は決まっている。
バニラには放っておいてと言われているけど、必要事項の伝達は別なんじゃないだろうか。
修道院に来て間もないシスター・バニラなら、きっとまだ眠りにつけていないだろう。私も最初はそうだったから。
私はそっとベッドを抜け出した。
暗い廊下に人影はない。修道女たちを起こさないように足音を潜めて歩く。シスター・バニラの部屋まであと少しというところで。
「!」
ギィ……と、ごくゆっくりシスター・バニラの部屋の扉が開いた。やっぱり、困っていて助けを求めようとしているに違いない。
「あ、シスター・……」
バニラ、と出しかけた声をすんでで飲み込んだ。
何故なら、シスター・バニラは修道女見習い服の上に「外套」を羽織っていたから。修道院内を移動するのなら外套は必要ない。
こんな時間にどこに行くのだろう。
『私たちの清貧な暮らしが、ご貴族様にとっていい罰になるんですって。バニラ嬢もそういうことなんじゃないかしら?』
メアリイのセリフが頭をよぎる。
ーーまさか、脱走……?
シスター・バニラは廊下の角を曲がっていく。一番近い部屋の先輩修道女は眠りが深いことで有名だったし、メアリイや修道院長様を呼びに行くには時間がかかる。
手の平に汗を感じる。
このままでは彼女を見失ってしまう。
ゴクリと喉を鳴らした私は、シスター・バニラをつけることにしたのだった。




