12.ミュリエル修道院長
まぶたが重くて目が開かない。どこかに寝かされているようだ。意識だけは浮上したようで、暗闇の中、耳だけは冴えていた。
バラバラと響いているのは、ガラス窓に当たる雨だろう。
その手前、頭のすぐ側でも水が滴り落ちる音がした。額に冷たく柔らかい布が置かれる。身体にかけられていた毛布が優しく直された。
「シスター・バニラ、ルーセント伯爵から最初に聞いていた話と違います」
この声音は修道院長様に違いない。
静かだが、しかし厳しい口調だった。
「これ以上シスター・アリサに負荷をかけるようなら、わたくしは貴女の存在を許容出来ない」
「本当は薄々気づいているのでしょう、ミュリエル修道院長。私がやろうとしていることを。
ミリヤード・セントクリフ子爵令息にアリサを会わせたくない。本来なら、貴女もです」
少し離れた場所から答えたのは、確かにバニラの声だった。
修道院長様はかすかに息をのむ。バニラはゆっくりと続けた。
「私は、修道院長様も守りたいと思っています」
しばしの沈黙が落ちる。
ほんのわずかも、衣擦れすら音はしなかった。
「ーーわたくしこそ、守らなければならないものがあるのです」
修道院長様はやっとことのように、絞り出すように言った。いつだって迷いなく私たちを導いてくれる修道院長様にしては、とても珍しいことだ。
バニラは今、どんな表情をしているのだろうか。彼女からの返事はなかった。
やがて扉が開くような重い音がすると、二人分の足音は離れて行った。
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私が目を覚ましたのは、それから随分時間が経ってからだった。
修道院の自室のベッドに寝かされていて、カーテンが開いた窓からは暮れゆく空が広がっている。
「アリサ! 気がついて良かった! 修道院長様を呼んでくるわね」
メアリイは胸を撫で下ろすなり、バタバタと部屋を出ていく。ずっと側にいてくれたようだ。
間もなく、修道院長様を連れて戻って来た。
「ああ、シスター・アリサ。顔色が良くなっていますね、安心しました」
いつもと変わりない白い頭巾に、尽きることのない慈愛に満ちた微笑みだった。
ベッドから降りようとする私を、修道院長様は手で制した。
「シスター・メアリイ、シスター・アリサにミルクがゆを。シスター・アリサ、貴女は風邪を引いていたようですよ。今夜はここで食事なさい。晩の祈りと、明日の朝課も、今回に限ってはわたくしが免除します」
メアリイは頷き、調理場へ向かうために部屋を出て行った。
偽りなく優しくしてくれるメアリイや修道院長様を前に、私はやりきれない気持ちになった。
善意が溢れているこの部屋。
私だけが「秘密」を抱えているという事実に、いよいよ耐えられなくなってしまったから。
「修道院長様」
「なんですか、シスター・アリサ」
私は意を決して口を開いた。
正面から修道院長様を見つめる。
「シスター・バニラのことで、修道院長様にお話していなかったことがあります」
メアリイから受け取ったミルクがゆを勧められるがまま食してからーー
修道院長様と二人きりの部屋で、私は長い時間かけてシスター・バニラの教育係となってから起きた一連の出来事……酒場でのテディとの密会、ドクター・ストーンとの麻雀での顛末、【神の祝福】と【青い薔薇】について、ホテルのレストランでのバニラとミリヤード・セントクリフ子爵令息との会話、今日回廊でバニラが私に話したことなどーー
洗いざらい、修道院長様に打ち明けた。
修道院長様はただ黙ってそれを聞いていた。ミリヤード・セントクリフ子爵令息とのやり取りについては、さすがに驚くそぶりを見せていたが。
私は膝の上でギュッと両手を握り締めた。
「私は教育係としても見習い修道女としても失格です。これだけのことを修道院長様に黙っていたのですから。院長様の期待に応えることが出来ませんでした」
修道院長様はゆっくりと首を振った。
「貴女はわたくしに嘘をついていたわけではない。知っていることを全て言わないことが咎められるならば、わたくしとて地獄へ落ちるでしょう」
「でも……!」
「シスター・アリサ、貴女から見たシスター・バニラについてよく分かりました。
貴女の苦悩に気づかなかったわたくしに責任があります。無論、シスター・バニラからも話を聞かなければなりません。今後の対応はそれから決まることになるでしょう」
私は力無く返事をした。
修道院長様は私のこともバニラのことも責めたりしなかった。その変わり、諭すように言った。
「改めなさい。これからは小さなことでも一人で抱え込まないことです」
それから小さく呟いた。
「この問題はシスター・アリサが思っているより、ずっと根深いのですから」
「ーーえ?」
どういう意味だろう。
「おやすみなさい、シスター・アリサ。何も心配することはありませんよ」
修道院長様はそう言い切って、私の部屋を後にした。ただ、白頭巾の下のその瞳に、思い詰めたような決意の色が浮かんでいたように見えたのは……
私の思い過ごしだったのだろうか。
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翌日、身体を起こせば明らかにすっきりと軽い。数日ぶりに爽やかな気分だった。
連日の寝不足とあまりにも予想外な出来事に、自分の認識よりもはるかに疲れていたのだろう。
修道院長様と話をしたことで、付きものがいくらか取れたような気がした。
気分よく鼻歌を歌いながら身支度をしていると、廊下が騒がしくなる。
何事かと扉を開けば、目をひん剥いたメアリイがこちらへ駆けてきた。
「ど、どうしたの、メアリイ。そんなに慌てて」
「大変よ、アリサ!」
「シスターが……シスター・バニラが失踪したの!!」
10/23 誤字脱字報告ありがとうございます!




