メヌエット 3譜 帝王の器
「ああ──少し待っていてくれ」
余り見掛けない顔の給仕がベオウルフお義兄様に杯を渡す。恐らく今回連れてきた従者なのだろう。
淡く蒼を帯びた銀のゴブレットの側面に、人差し指全体をバターナイフのようにゆっくりと滑らせると、側面に薄く輝く紋様が浮かび上がる。
「最近はこれじゃないと全然落ち着かなくてね……ワイングラスよりも数段風味が落ちてしまうが、背に腹は代えられないよ」
そう告げてからビンテージと思しき白の葡萄酒を注いで貰っている。
あれは特殊な魔銀による毒の検出と中和。幼い頃の私が得意としていて、お義兄様に教えて差し上げる事の出来た唯一の魔法。
つまり、いつどこに居ても、誰一人信用していないという証左。
同時に私の手元には手の平サイズの苺のタルトが運ばれてくる。透明なシロップに包まれた光沢が眩しくて、まるで宝石のよう。
彼は鷹揚に大きく足を組みつつ、静かに揺れるミニチュアの湖面を眺めてから、ゴブレットを掲げ、言祝ぐ。
「酒神の恵みに、完杯」
私も無言で、ミルクティー入りのカップを彼の方に小さく掲げる。お互いのそれは、触れ合う距離には無い。
「あの蛮族共を潰す口実で、遠征ついでに無理矢理立ち寄らさせて貰ったんだ。どうしても…………どうしても今の君を、一目見ておきたくて。でも、どうやら困らせてしまったようだ」
「蛮族……隣国エヴァンスの、ロナード朝の事でしょうか。和平に向かっているとお聞きしておりましたのに」
ナイフで小さく切り分けて口にすると、ほろほろと崩れる生地の強かな甘みに加え、苺の仄かな酸味と瑞々しさが口の中で程良く溶け合う。間にはカスタードも敷かれていて、濃厚な優しさで背を向け合った二つの味を上手く繋いでくれている。
「表向きは……ね。恐らく初っ端から愛娘を差し出し、完全降伏の構えさ。俺はそれを帝都まで大切にエスコートさせて貰う。それだけさ。これで概ね、当面の脅威は消え去るだろう。後はいずれ陛下から帝王の座を継ぎ、正式に君に求婚する……本当に後はもう、それだけだったのに……」
確か彼は現在の皇太子、即ち〝第一王子〟だった筈。
私と過ごしていた幼少期、お義兄様はベオウルフ第十七王子、その名の通り継承位としては十七番目。
同じ傍系ではあったものの、ヌアザ帝は完璧なる実力主義の世界。血族間で互いに能力や実績を公平公正に評価し合い、継承位さえも日々移ろい行く。
そしてこんなにも短期間で第一王子まで駆け上がってしまうなんて、前代未聞の話。今回のロナード王朝制圧も含めれば、きっとその地位は盤石となる。
私自身、番号始めの二十ですら程遠い存在だった。それなのに、何故か幼少の砌から頻繁に構って貰っていて、とても不思議に感じていた。
「──もう酔われてしまったの? あんなの、遠い昔のお戯れとばかり」
ベオウルフお義兄様は、昔から事ある毎に私と結婚するんだと意気込んでいた。お世辞や冗談とばかり思い込んでいた。
本音を言うと、少しときめいていた時期だってある。
絶対に皇帝になって、私と肩を並べ、一緒に広い世界を見下ろすんだ……って。
いつもいつも、そんな夢見の物語ばかりを口にして────。
「君のように気高く、美しく、しかも決して道を違えない女性は他に無いと、最近改めて悟ったよ。ただ、神様は本当に意地悪だ。ヌアザは元を辿れば魔女の家系。潜在的な魔力だけ見れば、君の方が俺なんかより数段格上なのは分かっていた。それでもまさか、まさか本当に、君が選ばれてしまうだなんて────」
私は知っている。
あの魔銀を介した解毒は、加減によって酒精をも分解してしまう。
琥珀めいた瞳が音も無くこちらを射抜いてくる。
「ずっと…………ずっと君の事を待っている。〝夢弾きの偶〟の責務を終えるその日まで。体裁上しばらくは第一公妾を囲わなければならないが、そこは許しておいて欲しい」
先の紋様の光は強く、本当に見極め辛いラインで、お義兄様の真意を推し量れない。
そうして私は何の言葉も発せられないまま、ただ目の前の美味に没頭する。
「────済まない。忘れてくれ。全部酔っ払いの戯れ言だ」
視線を逸らし、観劇のようにホール一円を見渡している。最初にぼんやりと全体を眺め、相手のウィークポイントを具に捉える、彼の分かり易い嗜癖。
今の皇太子は酔っても顔には出ないという噂だったし、私を困らせないよう、敢えて撤回してくれただけかもしれない。
それでもあんなにも真っ直ぐで、思い詰めた──見方によっては弱り果てたような表情は、初めて見たような気がする。余程深く悩まなければ、決してあんな風にはならない。
なのに、私の心は今、悲しい程に揺れ動いてはいない。
あの言葉はまるで……まるで私に向けたものではなく、ただ計画の頓挫や、負け惜しみのように聞こえてしまったから──。
居たたまれなくなり、侍女にオペラグローブを取ってくるよう言伝し、円舞の輪に誘おうと試みる。
「無理はしなくて良いさ。君が昔からダンスを好まないのは能く知ってるからね。さっきから全然気乗りではなさそうだったし、デュエットが苦手……と言った方が正確かな。でもそれならどうして、こんな盛大な舞踏会に?」
「こんななんて、わたくしの精魂込めたアイディアにご不満でも? しかも、ただ驚かせるために〝この子〟には色々と隠し立てしておいて……全く、知性の効いたジョークか何かかしらね」
声の主へ振り返ると、エメラルドグリーンを基調としたマーメイドラインに、宝石類をほぼ纏わないのに、とても華々しく見える女性が直ぐ近くで私達を睥睨している。
私より少し年上だろうか。それにしても、いつの間にこんなに近くに。
右手にはレースで縁取られた扇と呼ばれる半円状の透けるような工芸品を持ち、嫋やかに口元を隠している。
「────誰?」
無意識に訝しみを投げてしまう。
「あらあら、貴女まで連られてそんなジョークを」
くすくすと小さく肩を揺らして笑う。まるで陶磁器みたいに繊細で透き通った肌。
「ご機嫌麗しゅう、貴婦人・エマニュエル。貴女の発案だったのか。とても素敵な催しだと思うよ。それにそのドレス姿……月並で申し訳ないけど、とても綺麗で、チャーミングだ」
「ミス・エマで構いませんわ。先程もそうお伝えしております。それにしてもお二人でこそこそと……まるで非公式なサロンの密会ですわね」
────レディ・エマニュエル?
聞いた事のある名……彼女が、先代の〝夢弾きの偶〟だったと言うの?
気付けばテーブルを手の平で叩きつつ、立ち上がってしまっている。
「……まあ、端無い事」
確か先代は三十五年程勤め上げたものと聞いている。即ち、五十半ばの筈。
私の右手に座っていたお義兄様とは反対側、右手側に椅子を用意させ、薄幕を下ろす指示をしている。
「でも、仕方ないかもしれませんね……わたくしも先代の事は何一つ知らされなかったんですもの。以前の肖像画も、偶の洗礼式の直前に外されてしまいますし」
「──ああ、きっとそれだけじゃないよ。俺も、さっき随分と驚かされたからね」
「それって、わたくしが若作りし過ぎって事かしら? 人の事をそんな生き霊みたいにおっしゃらないでいただきたいですわ……毎回褒められているんだか貶されているんだか、全然分かりませんもの」
敢えて大仰に驚いた振りをしている。
本当に食えない御方だ、と、ベオウルフお義兄様も少し楽しそうに呟く。




