メヌエット 2譜 星海の間
ある日、気も漫ろでヴァイオリンソナタを弾き終える。指導者からの小さな喝采は、静かに頭の中を素通りしていく。
「大変素晴らしいですわ、皇女殿下。今日は一段と哀愁の響きが──」
談義や短評を終える間も無く、重苦しい扉が物々しく開かれる。
「報告! 帝都からの伝令使が拝謁を申し出ております!」
近衛兵とは異なる一般兵。恐らく火急の用件なのだろう。指導者は不服げに髪を弄っているけれど、私は彼女に手を翳して非礼を詫び、部屋を後にする。
輝かしい燐火宮の広間にて。先ずは未だ慣れない玉座にゆったりと腰掛ける。威厳を欠かさないよう、その所作には常に十分な注意を払う必要がある。
普段であれば多数の付き人達が並ぶ筈なのに、この謁見の間に、今は私と跪く男の二人きり。つまり、帝国からの勅語に近しい伝令という事。
「……どうぞ、お話ください」
もし不意の刺客であれば、いつでも飛び込めるよう扉の外に何名かの護衛が待機してくれている。
「はっ、〝明朝本国からの視察団が到着する故、然る手配の後、明晩、歓待の宴を催されたい〟……以上です!」
……明晩だなんて。幾ら何でも急過ぎる。帝都からはどれだけ急いだって十日は掛かる筈。つまり、到着の寸前で先馬を出したという事。
「それは……余りに突然ですね。それで一体、どのような方々がお越しになられるのでしょうか」
汚れ一つ無いサーコートを纏った男は、背を曲げ、更に深く頭を垂れる。
「そっ、それが、その…………皇女殿下にだけは、決して明かさぬように厳命を賜っておりまして」
「────承知しました。それでは委細、三元老にて承ります。どうぞよしなに。お越しいただく皆様には、心よりお待ち申し上げておりますと、そうお伝え下さい」
三元老は元老院の長らで、名目上のトップである私を補佐し、実権を司る公爵達。更に権力が偏らないよう、重要案件に限っては三名による合議制となる。
この国に来て私が最初に行った事は、帝国令第二十三条の三但し書きに基づき、元老院に対しての勅書、即ち実質的な全権委任状にサインする事。
それでも時折、こうして私自身が直接出向いて話を聞かなければならない時がある。
その私に対し、〝内密に〟だなんて。
謁見の間を後にすると、皆が既に慌ただしく動き始めているのが分かる。詰まる所、先に元老院の方で詳細を把握してから上奏して来たという事。
全く。何という茶番なのだろう。
翌日、視察団の誰とも顔を会わせる事無く、そのまま晩餐会の会場である湖水宮の大広間、〝星海の間〟へと足を運ぶ。
付き人以外誰も居ない二階の観覧席で、三方を厚いヴェールで囲まれ、吹き抜けになっている一階ホールを見下ろしながら、贅の限りを尽くした夕食をひっそりといただく。
肉の一切れ、スープの一口ですら、急拵えとは思えない程麗しく、繊細な味わいを舌の上に齎してくれる。
響き合う楽弓の重厚な調べに乗り、まるで小川に浮かんだ木の葉のように、数多の紳士淑女の対が、リズミカルなステップで淀み無く揺れ動く。
ただ件の主賓はどこにも見当たらず、皆どこか、猜疑的な面持ちのようにも見える。それにしても今日はやたらと壁際に佇む女性が多く、男余りしている。
やがて華やいだオーケストラの協奏が二度目の佳境を迎えた頃、名も知らぬ給仕兼老執事が最後のディッシュを下げつつ、ようやく要人の到来を告げる。
「────まさかこんな所に隠れているなんて、ね」
爽やかな声と共に、ジャスミンイエローの髪色をした長身で、引き締まった身体付きの男性が薄幕を上げて臨席する。
私は、隠れてなどいない。
隔離されているだけだ。
「そのイヴニングドレス、とても綺麗だ。凄く好く似合ってる。無論、中身がこの上なく美しいからこそ、だけどね」
そういう青年の方は、黒のテールコートに、ホワイトタイを締めた礼装。
こちらは一張羅のローブ・デコルテで、足元の濃藍から胸元の月白まで、水彩画のように鮮やかにグラデーションする。この夏の夜から冬の朝へと一気に抜けるようなダイナミックな色彩が、特にお気に入りの一着だった。
ただ鎖骨を全て露にする大胆な胸元は恥ずかしく、予めショートケープを羽織ってある。
あちらの胸ポケットに覗く華やかなマリーゴールドのポケットチーフは、このドレスと敢えて対比させた物だろうか。
記憶のそれよりもずっとずっと精悍になっていた彼は、ホワイトグローブを着けたままで私の手を取り、切れ長の唇を一瞬近付けてからキスする素振りだけに留める。
妄りに、かつ気易く〝偶〟に触れてはならない、そう考えたのかもしれない。
「お久しぶりです、ベオウルフお義兄様──」
お義兄様とは言ったものの、実際のものではない。遠く離れていても、皇の血統は全て纏めて家族のように扱う、という、ただそれだけの話。
「本当に見違えたよ、クラウディア。それにしても……全然驚かないね?」
「あんな非礼極まりない悪戯を堂々とされるだなんて。お義兄様位しか思い当たらないんですもの。それはそうと…………その頬の傷、一体どうなさったの?」
殆ど記憶に無い青年は、白手袋の甲で無造作に擦り傷を拭い、小さく笑う。
よく見ると意外な程筋肉質なようで、上腕はかなり張っており、明らかに服のサイズに合っていない。きっと既製服で適当に間に合わせたのだろう。
「君の護衛長……あのリザードマン君と手合わせしていてね。申し分無い強さだったよ。それで、少し遅れてしまった」
お義兄様も相当な手練れな筈なのに。そのお義兄様に対して顔を擦り付けるような転ばせ方をしたという事? だとしたら、〝申し分無い〟所の騒ぎじゃない。
「あの方は竜人とお伺いしております」
「……なるほど、それは道理で。そう言えば中央通りを上ってくる時、エルフや獣人、挙げ句は妖精もどきが。中々驚いたよ。皆で季節外れの仮装大会でもしているのだろうか、とね。流石に宮殿内で見掛けたのは彼位だった気がするが、本当にここの神々は寛容だね」
非純人への偏見は、未だ根深い。
この四宝殿に出入りしている非純人は、あの名も知らぬ護衛長と、半狼のシンシアさん。その二人だけの筈。そして後者の場合、もし擦れ違っても気付く事はなかっただろう。
「アヴァリス……正に一騎当千の武人だった。加えて誇り高さも折り紙付きと来ている。いつか我が軍の一等軍曹にお招き入したい位だ。腹に一物抱えていそうな所も、とても面白い」
アヴァリスとは恐らく、その竜人の方の名前なのだろう。
かの護衛長は、どちらかと言えば外敵向けの戦力だったから、私に対して日常的に付き従う事は無い。
「……ああ、済まない。淑女には詰まらない話だったね。そうだ、折角だから踊りながら話さないかい? 君のドレスを汚さないよう、わざわざ窮屈なエナメルの靴に履き替えてきたんだよ」
そう言って音も無く立ち上がり、胸に右手を添え、淀みないボウ&スクレープで私を誘う。
「ええと……ドルチェがまだだから、それをいただいてからで良い?」
「はは。皆は楽しく踊ってからというのに、昔から本当に君は美味しい物に目が無いね。それなら申し訳無いけど、俺の方も先に少し酔わせて貰う事にしよう」
その屈託無い笑みを見て、ようやく眼前の青年と昔のお義兄様が少しずつ重なって行く。




