カノン 1譜 騎士爵
あの辛い日々と出来事は、すっかり私の意識を変容させてしまう。
余り肩肘を張らなくなり、自然体に近付いた、と言えば聞こえは良いのかもしれない。だけど要するに、〝ちょっぴり刹那的で、彼以外に対しても少しだけ我が儘に〟なってしまったのだろう。
事件については秘匿を努めていたけれど、どうしても噂は流れてしまうもの。
〝救国の士〟が現れた。命を賭してミュース公国を護ってくださった。若く勇ましい英雄で、皇女殿下の寵愛を一身に受けている──。
全く根も葉も無い噂かと言えばそうでも無いけれど、少し誇張され過ぎた嫌いもある。
ただきっと、これは大きな〝追い風〟──。
彼の傷が癒え切り、職務に復帰するタイミングを見計って、私の居所──古天宮の、うら高き枝楼にある客室の一つにお招きする。
本当は、私から彼の住まいにお伺いしたかったのだけれど、どうしてもそれは叶わず。已む無く呼び付ける形に。
「────この度はご招待賜り、誠に光栄です。皇女殿下」
衛兵のチュニックを着用し、右手を身体の前に翳す、軍式の簡素なお辞儀をしている。
最高級の紅茶を二人分、別々の温度で用意して貰う。控えを全員部屋の外に下がらせる。少し遅くなってしまったけれど、先の功績を称え、労いと賛辞を兼ねた、私からの小さなお茶会。
少しこぢんまりとした部屋の中で、ようやく二人きり。
今日だけはいつもの瀟洒なドレスではなく、薄手のブラウスにフレアスカートといった〝普通の服装〟。一緒に出歩くなんて絶対に出来ないから、せめて雰囲気だけでも、何とかデート気分を演出したくて。
「とても良い眺めですね。こんな風に見える部屋があったのなら、あの場所に案内する意味なんて、無かったな……」
彼は全員出払ったのを確認し、遠く窓の外に市街を望みながら、小さく呟く。きっとあの夜、とっておきと言って連れて行ってくれたスポットの事だろう。
私も連られて外を見ると、仄かに水彩めいた雲と街並みが視界に入ってくる。
「〝素敵な景色〟ってお礼を言いましたのに。書いてありませんでした?」
私はこっそり、いや、寧ろ堂々と、向かい側から彼の隣に椅子毎大きく移動する。既に自分のティーソーサーはこちらに移動させてある。
「え……え、えっと…………クラウディア?」
先ずは椅子同士をぴったりとくっ付ける。すると彼はジリジリ座る場所だけ移動させ、そこから更に椅子も離そうとして来る。私は負けじと椅子毎追い掛ける。
何度かそれを繰り返した所で、ようやく諦めてくれて、安心してその右肩に身を寄せる。
「あ、あの……この状態だと、凄く飲みにくいんだけど……」
頬杖を突いて彼の顔を真正面から眺めるか、こうして隣に寄り添うか、昨晩中頭を悩ませていたけど、やっぱりこっちの方が断然良かった。凄く恋人っぽい。
怪我が治っているとはいえ、念のため右側に来たので、カップを取る手の〝お邪魔〟らしい。実は腕を上げる度、私を感じ取って欲しいという邪な狙いもあったんだけど。
「じゃあじゃあ、私がアゼル様に飲ませて差し上げますね♡」
早速ティーカップを強奪し、猫舌と聞いていたから温めに用意して貰ったミルクティーを軽く口に含む。
そうして腰を上げ、彼の首に両腕を絡め、口腔から口腔へと注ぎ込んで行く。
紅と白の芳しさが同時に鼻の奥へと抜ける。控えめだけどお気に入りの艶やかなリップが彼の唇にも付着していく。
「んんっ──」
飲み込む時の顎の動きが伝わって来て、頭の中が痺れ、爛れ、心まで焼け落ちてしまいそう。
熱いお茶じゃなかったのに。何だか彼の顔が火照って見える。
「…………随分と手慣れてるね?」
少し濡れた口元を粗く手で拭い、半目がちで非難めいた口調。アゼルさんだって凄く嬉しかった癖に。唇の感触から、私だけじゃないって、もう分かってるんだから。
「看護していた時、幾度と無くして差し上げておりましたから……これをすると、何だか愛おしさで胸が一杯になってくるんです。最近ご無沙汰で、凄く口寂しかったですし♡」
「全く、人を雛鳥扱いして……ところでその〝アゼル様〟って何? 今まではそんな風に呼ばれてなかった筈だけど」
「え、えっと……強くお慕いしたい気分の時は、そう呼ばせていただいてたんですよ? きっと照れ臭くて、日記には記せなかったんだと思います♡」
連結させた椅子に並んで座ったまま、しっかりと腕を組む。
女性抒情詩人の紡ぐ恋物語は、そういう殿方の呼び方ばかりだったから。内心ちょっぴり憧れていた。
でも現実は、全く逆の立場。だからたまにはこうして、私の方から目一杯彼を敬って、お慕い差し上げて、尽くさせて欲しい。普段と正反対なのは凄く新鮮だし、何だかワクワクして来てしまう。
「ああ……また新手の悪戯かな? 確かにあの手この手で飽きる程に弄られてきたって書いてあったし。それなら僕は、真っ新な気持ちで楽しむ事にするよ……」
本当に。いつもいつもそうやって諦観しがちに、私の遊び心を肯定してしまう。
そんなだから、私がどんどん増長しちゃうんだって、全然気付いてくれてない。でもそれが却って嬉しくて、とても堪らなくて。
自身の犯した大罪とはいえ、私に対する記憶が全て失われ、〝記録だけ〟になってしまったのは、思い返す度本当に切なくて、胸が苦しい。
どうしようもなく辛くて、未だに涙を零す夜だってある。
でも今は、敢えてそれを逆手に取ってみる。
例えばこうして、昔からしてみたかった事は全部、〝いつもしていた事〟に変えてしまえば良いのだから──。
──そうだ、余り時間は無い。
確保出来たのは、日中のたった二十分の一程。偶の儀式はあの日以外欠かしてはいないし、他のお稽古や簡単な政務も、彼が目覚めてからは直ぐに再開している。
多忙というには程遠かったけど、今はまだ少ししか一緒に居られない。その事実に、またきゅっと胸の奥が締め付けられる。
そっと手招きして、耳を近付けて貰い、早速今日の本題を囁く。
〝ね、結婚しよ?〟
「っ!! ……ごほっ、げほっ」
お茶を飲み込んだのはしっかり確認しているのに、何だか酷く噎せている。
「…………だめ? もう二人きりの秘蹟だって済ませたのに……」
腕にしがみついたまま、出来るだけ潤んだ瞳を意識し、上目遣いで訴え掛ける。
「いっ、いやいやいや──ちょ、ちょっと待って、流石に性急過ぎる! それに、君と僕とでは……」
「──じゃあ、急じゃなければ、良い?」
組んでいた腕を、更にぎゅっと掴む。私の心は、もうとっくに貴方だけのものですって、腕越しに一生懸命伝える。
「もっ、もちろんさ。いつか一緒になれたらって、ずっと想ってる」
絶対絶対、もう離さない。彼が死の淵を彷徨っている時、そう、決めたんだ。
「それなら先ずは……私を護る〝騎士〟になって欲しいな……」
そうして私は、秘かに企てていた計画を彼に打ち明ける。
「────騎士?」
数日前の燐火宮、謁見の間にて。女官の代読に、私はつい眉を顰めてしまう。
無言の三元老──私の前に跪き、頭まで覆うローブを纏った者達を玉座から無感情に見下ろす。
先日帝都から戻った北の元老様の報告は、予想し得ないものだった。
要約すると、公国の落ち度が表沙汰となる前に、何か裏で大きな事件を解決した事にして、彼に騎士爵でも与え、衆目をそちらに向けさせよ、と。
下手に放置し、有らぬ尾鰭が付くよりも、その方が噂は一気に収束するだろう。そんな命令めいた示唆は、元を辿ればベオウルフお義兄様からの助言らしい。本当にあの人らしい、豪胆な手練手管。
「……委細、承知しました。どうぞよしなに」
予めそう指示されると分かっていたので、西の元老──即ちエマ様が主にこれを取り仕切り、南の元老が補佐となる案が示され、その場で口頭決裁し、散会となる。
この小さな公国に於ける爵位は公爵だけ。つまり、三元老のみ。一代限りの名誉爵位たる騎士爵については、前例が無い。
本国の例に倣えば、騎士爵は名目上の元首、即ち〝夢弾きの偶〟たる私に深く忠誠を誓い、直属・直轄となる事を意味する──。




