セレナーデ 2譜 夢弾きの偶
「えっ……!?」
世界を隔絶する平らかな扉をぼんやりと眺めていたところ、驚き過ぎてやや大きい声を上げてしまう。まだ鍵を掛けずにいた事を思い出す。
「しっ、お静かに…………早くこれにお着替えください」
「これって────」
ああ、そうか。〝次はバレないようにしましょう!〟なんてあんな御為倒し、律儀に守らなくたって良いのに。
彼はどうしてこんなにもお人好しで、寛容で、私に慈雨の手を差し伸べてくれるんだろう。こんな取るに足らない幼稚な甘えに、どうして素直に応えてくれるんだろう。
「まだ扉の前にいらっしゃる気がしましたので……もし明日までずっとそんな風にいじけられたら……って、今はそんな事はどうでも良くて──」
滴り落ちる金のアンカサス文様が眩い扉はとても重厚で、冷たく閉ざされた向こう側の気配など微塵も感じられない。
それなのに。
もうとっくにベッドに入り、天蓋を見上げ、寝息を立てていると思われても仕方のない位、時間が経っていたというのに。
どうして。
この常春の地は、ヌアザ帝国から分離した属国で、神々に見初められたという小さな〝庭〟。
手狭ながら、今や亜人種を含め数千と言わず数万もの人々が暮らしている。
温暖で、日々花々が咲き乱れ、綺麗な水や作物、宝石や金銀などの鉱石だけでなく、木材なども豊富に採れる。豊穣は約束され、三圃制だって要らない。
生きていく上で何も不足しない、謂わば地上の楽園。
そして太古の昔、この〝神々の庭〟を純人が見付け、粗暴に侵してしまった。
人の国を建ててしまった。
而してその蛮行に業を煮やした神々は、この庭に大いなる鉄槌を下す。
この地に住まう者が、〝今日の記憶を明日に持ち越せない〟という、過酷で悲惨な呪いの鉄槌を──。
やがて人々は、それに抗う事が出来る唯一の魔具、〝服いの竪琴〟を見出す。
帝国の長、皇の血統のみに宿るといわれる純度の高い魔力を注ぎ込みながら、一日に一度だけゆっくりと奏で、唄い、かの怒りを鎮める。
日々神々に赦しを請い、〝夢弾きの偶〟を担ぎ、崇める。
決して他者と交わってはならない、業腹に捧げられた姫御供として。
「そう言えば……お一人で着替えられます?」
心配そうな声だったけれど、何だか幼児扱いされたようで、自分でも意外な程にムッとしてしまう。
確かにここに来てからは、毎日着せ替え人形のように自らの手を一切患わせずに済んでいた。
ただそれは、どんな簡素な服でも、決して自分一人で着えさせて貰えないと言った方が正しい。
恐らく過剰に干渉し、管理し、独立心を持たせず、衣服に何も仕込ませないための予防策だろう。華美で瀟洒なロングトレーンのドレスも、つまりは囚人の足枷に同じ。
私は皇の血統の端くれだったとはいえ、元々本国では傍系の末端も末端。当然ながら着替えは毎日自分で行っていたし、メイドさんも一人だけだった。だから家事の一部さえ、手ずからしていた。
だから、今が特殊過ぎる環境なだけ──。
大粒のムーンストーンを至る所に配い、レースの沢山付いたプリンセスラインを着るなんて。もしデビュタントの日があったとしても叶わない。
だけど公国に来てからは、あんなのを毎日、しかもほぼ一日中──。
面従腹背と言われる社交界は好きじゃなかったし、肩の凝るドレスや目一杯の粧し込みは、特別な日だけだからこそ、喜びも一入だったのに。
ここに来たのは、丁度十八歳の誕生日。
もう三か月位は経った筈だけど、季節の変化に乏しいから、その実感さえ無い。その間に私の周辺で名前を教えて貰えた人は、まだ片手で十分に事足りる。
日々修練やお稽古事に努め、規律正しく生き、いずれ内なる力が枯れ果ててしまうまで、神に仕え、ご奉仕する。
長いと数十年、短くても十年程度、祈り、ただ奏で続けるためだけにある存在。
それがヌアザの家系に課せられた原罪、〝夢弾きの偶〟。
彼の名や年齢だって、最も懇意にしてくれている家政婦長のオルガナさんですら、一向に話してはくれず、家庭教師さん達の噂する所に偶然通り掛かり、耳にする事が出来た。
私自身ここに来るまで、正直な所、昨日の記憶が露と消えてしまうなんて事は半信半疑だった。
でも絵空事なんかじゃなく、今尚続いている確かな〝神罰〟。そう知った。
一日に一度、記憶を明日に繋ぐために爪弾く。
歌は何だって良く、短くても構わない。それこそ気分次第で、鼻歌一節程度でも十分事足りる。
但し唄う時は必ず、背丈程の大きな竪琴を、大きな赤子のようにしてそっと抱え込み、揺蕩うようにしっかりと魔力を篭めて奏でる。
その時魔力の奔流が伴わなければ、確実に失敗する。
皆の大切な記憶が、昨日一日を立派に生きて来た証が、全て失われてしまう。
もし何かに記録しておかなければ、忘れた事すら忘れてしまう。
一度試しに魔力を注がず、一生懸命心血を注いで唄ってみたけれど、本当に昨日一日が嘘のように、記憶から消えてしまっていた。
────心底、ぞっとした。
それは純人族に限らず、この地に住まう者全て──エルフやドワーフ、獣人や竜人などの亜人種、一部の高位精霊すら変わりない。
外的記録によってそれが判明すると、〝継承直後には能くある事、まだ慣れないだけだろう〟なんて慰められたけど。ほんの出来心で、公国民全ての大切な一日を踏み躙ってしまった。その事実がしばらくの間、強く胸を苛む。
大きく体調を崩した日や代替わりの時など、どうしても偶本人が奏でられない時は、〝繋ぎ手〟と呼ばれる人達が、夜夜一夜交代で奏で続けてはくれる。
それでも選ばれし皇の血統には到底及ばず、殆どの記憶が緩やかに失われる。
つい昨日の出来事だった筈なのに、まるで遠い昔話のような朧さになる。
身支度の途中。
「大丈夫……なんだけど。ちょっとだけお尻や胸の周りがキツいような……」
低俗な反抗心に負け、態とらしく口に出してみる。どうやら小柄な男物のようで、実際胸の辺りは相当キツい。
この息苦しさは、未だ慣れる事の無いコルセットに能く似ている。
「も……文句言わないでください! 折角頑固なランドルフ爺に無理言って、それっぽいのをようやく貸して貰えたんですから……」
返す言葉は予想通り含羞を滲ませ、少し申し訳なく思いつつ、でもやっぱり可愛いな、なんてつい考えてしまう。
そう言えば先日、これに似た衣装を纏った勤勉な老齢の庭師さんをしばらく見掛けなかった。どうやら最愛のお孫さん兼、お弟子さんをご病気で亡くされ、憔悴し切っていたらしい。
きっとこれは、その〝彼〟の大切な遺品なのだろう。
だからこの胸とお尻の窮屈さを除けば、とてもシンプルで動き易く、私好みだった。




