セレナーデ 1譜 初恋
──コトリ、と。
その時私は、確かに私が恋に落ちる小さな音を聞く。
ここはミュース公国。
猫の額程の、〝始まりの罪〟に塗れた地。
窓の外を見上げると、煌めく星々にまん丸の明かりが仄白く浮かんでいる。ふと固唾を呑んでしまう位に。
宮殿の寝室から、廊下に静かに顔を覗かせる。入った時と変わらず、部屋の外には彼一人だけ。周囲を確認してから、そっと囁き掛ける。
「ねぇねぇ……好き♡ 私のこと、好き?」
「……またそうやって、大の大人を揶揄って。そういうの、本当に良くないですよ? 皇女殿下。今晩は何をお企みでしょうか」
真っ直ぐ前を向いたまま目も合わせてくれず、これ見よがしな嘆息。飛び切り若くて弱々しいこの衛兵さんとじゃれ合うのは、いつも緊張して飽きが来ない。
毎夜そっと一人になるタイミングを見計らい、扉の外を少し覗き込んでは、語り掛ける。そうして今日は何となく、隙間から身を滑らせ、薄絹のナイトウェアのまま強引に腕を組んでみる。
邪険にされて尚、勇気の一歩。
前腕や肘を護る軽鎧は冷たく、そこから少し外れた布だけの上腕は華奢で、何だかとても頼りない。
「……ちょ、ちょっと! いきなり出てきちゃダメでしょ!? 危ないですし!」
急に重心が傾いて慌てふためく彼は、ロングスピアの石突きを毛足の長い絨毯に強く押し立てバランスを取っている。
「大人だなんて、そんな……私と二つしか変わらないってお伺いしましたのに♡」
「何故その事を…………」
往なす事も儘ならず、ただ狼狽えるだけ。カラメル色をした髪の隙間から横顔が覗く。
初で、悪意が無くて、まるで生まれたての子猫が悪戯された時みたい。
「そ、れ、に! 私にはちゃんと〝クラウディア〟っていう名前があるんです。だ~か~らー、そろそろ皇女殿下だなんて他人行儀なのは止して、名前の方で呼んで欲しいな……ねぇねぇアゼル様、アゼル様ってばぁ♡」
そこまでアプローチしてようやく、私の方を向いてくれる。同時に無機質で重い鉄の臭いが、ほんの少しだけ優しいものに変わった気がする。
「いっ、いつの間に名前まで……あ、あのですね……皇女殿下のお名前を我々が口にするなど、不敬罪で罰せられるかもしれないと、何度も何度も、それはもう何度も! 口酸っぱく申し上げて来ているのですが……!」
縋っていた腕を懸命に振り解かれ、力無く寝室へと押し戻されて行く。
厚い革手袋越しに上腕を掴まれる感覚が、弱々しくて妙にくすぐったい。
鉄兜の鍔に翳る黒耀石にも似た真っ直ぐで静かな瞳に見詰められると、何だか面映ゆくて、身体が強張って来る。
「じゃあじゃあ……〝かもしれない〟なら、そうじゃないかも……しれない??」
精一杯の上目遣いで、詭弁を弄してみる。
「ああああああああ、もーーーー! そういう細かい揚げ足取りなんかしてたら、いつかみんなから嫌われちゃいますよ!? いい加減にしてください!!」
それは私に対して、一体何の意味があるのだろう。
だってその〝みんな〟の中に、貴方は入っていない。
無言で見上げ続けていたら、ようやく根負けして彼の視線が不意に逸れる。その涼しげな横顔を見ると、内心ちょっぴりドキドキしていたのは私だけだったようで、何だか無性に腹立たしくなってくる。
こうして他愛ないやり取りをしていると、ずっと困ったような顔なのに、ふと柔らかい面差しを見せてくれる。
優しい光が、寂しい心にゆっくりと注ぎ込まれていく。
温かな雨のように、緩く緩く染み込んでいく。
だから、きっと。
こんなすれ違いしかないやり取り、キラキラした恋なんかじゃないって最初から分かっていたけど。
どうしようもなく楽しくて、心躍ってしまっていた。
「さあさあ、お戯れの時間はもうお終いですよ。またあんなの見付かっちゃったら、もうこっぴどく怒られるだけじゃ済まないんですから。早く寝室へとお戻りください────」
鋼のスピアを近くの柱に凭れさせ、今度はしっかりと両手で両肩を掴んでくる。でも、不快さは全然無い。
「えー、やだやだやだ~、やだってば~、ねぇ今日はダメ? ねぇってば~」
首を傾げて上目遣いのまま口を尖らせてみるけど、既に半身はもう寝室に押し戻されている。
「もう……小さな子供みたいな駄々捏ねないでくださいよ……」
苦笑が漏れている。
じわじわと後退る踵に伝わる感触は、既に廊下のそれから室内のそれに変わってしまっている。一気に押し篭めて来ないのは、きっと万が一にでも私を傷付けてないようにしているからだろう。
可哀想に。もし私が逆の立場だったら、こんな触れるだけでも神経を尖らせる相手、出来れば関わり合いたくないのに。
そうして、檻のような殻のような、煌びやかで閑やかな自室にまた閉じ込められてしまう。
未練がましく、美しい猫脚めいた取っ手を少しだけ指で擦ってみる。
(あ~あ、渾身の色仕掛けも駄目か……じゃあもう諦めて寝よっかな)
私は〝夢弾きの偶〟。
十八になった時、〝服いの竪琴〟を奏で続けるために、本国、ヌアザ帝国からここへと遣わされた。
今は本当にお姫様みたいな接遇だけど、もう当面、私に自由なんか無い。
そんな事はもう、ここに来るずっと前、選ばれる事が決まった日から聞かされ続け、痛い位心に刻んで来た。
それでも。
頭では分かったつもりだったけど、実際そうなってみると、全く理解出来ていなかったんだと知る。
数日前、今夜みたいに彼一人の隙を窺い、平身低頭抜け出すの見逃して貰ったら、翌日ガウンの裾や靴の汚れでバレてしまった。
周囲からは徹底的に諫められ、散々苦言を呈された挙げ句、お母様からは心配だけでなく沢山の応援が書かれたお手紙までいただいてしまう。
後者の方が、余程重く堪えた。
彼自身も護衛統括官から相当絞られたようで、〝うたた寝をしていた隙に逃げられました〟なんて無用な弁明をしたところ、余計火に油を注いでしまったらしい。
コトリ、と──。
冷たい指で触れたままの扉に小さな〝亀裂〟が生じ、木靴と質素な麻布の服、それにハンチング帽が無言で差し込まれて来る。




