シンフォニー 3譜 死守
「────待って!! もうそれで大丈夫だから! 今直ぐ止まって!!」
シンシアさんの悲痛な絶叫が響き渡る。
「お願いです皇女殿下、もう……もう降伏なさってください…………」
黒豹に似た自他の境界を食らう神獣は、今にも私の胸に牙を突き立てようと口を開き掛けていた所、彼女の指示に従い、あっさりとその動作を止める。
「──ひと思いに、お願い」
最後は、何だか呆気なかったな。柄にも無くそんな短い感慨に耽る。凄く痛いのだろうか。やっぱり……とても苦しいのかな。
直ぐに終わると良いな。
「……皇女殿下は、こんな私にもずっとお優しくて、いつも敬意を表してくれて、でも……でも最近、凄くお辛そうで、参ってるみたいだから、自暴自棄で簡単に靡いてくれるだろう、って聞いて…………だから私、私…………!」
子供みたいに泣きじゃくり、尋常ではない程に取り乱している。ひょっとして、使役している彼女の方が先に心を食われ過ぎ、人格が崩壊し掛かっているのだろうか。
「────クラウディア様っ!!」
扉が大きく開け放たれ、勢い良く誰かが侵入してくる。組み敷く獣がそれに目を向けた瞬間、身体を思い切り捻って前蹴りし、何とか転び出て距離を取る。
「良かった、ご無事で!! お怪我の程は大丈夫ですか!?」
その言葉に、多少の擦り傷と背中の痛みだけで、大した負傷も無いと知る。
「……大丈夫です。ありがとう」
駆け付けてくれたのは、衛兵姿の……アゼルさん!?
そしてもう一人、後ろから泰然と歩んでくるのは、重鎧を纏った人型の竜。
顔は馬よりも細く尖り、独特な硬質の鱗に覆われている。一般的な大人に比べても頭三つ分程積み増した上背で、腰に提げた剣は恐らく両手剣なのに、どう見ても片手剣にしか見えない。
アゼルさんと鉢合わせしただけで相当心揺らいでしまっているというのに、彼は立ち上がる私に手を貸しつつ、とんでもない事を耳打ちしてくる。
(あっちの男は、多分グルです。少し泳がせて尻尾を出させますので、静観していてください。真の増援は、その後です)
驚きに顔を上げると、彼はいつもの下手なウィンクをして、多くは語らない。
──護衛長、竜人アヴァリス。
何とか頭の中を整理する。あちらも非純人。確かにさっきシンシアさんを横目に眇めた時、瞬間的に喜色を浮かべていたような気がする。
しかしあの竜たる男は、ベオウルフお義兄様ですら全く太刀打ち出来なかった程の傑物。そこに敢えて罠を張ろうだなんて……戦力的に大きく劣るこの状況で、幾ら何でも危険過ぎる。
「…………よく一人で持ち堪えられましたな」
初めて耳にする、大地の唸りにも似た竜族の声。あの悍ましい咆吼を放つ声帯で人の声を真似るだなんて、実は殆ど曲芸なのかもしれない。
ただ彼からの情報を鑑みると、褒められているというより、微かに苛立ちを孕んだ迂遠な嫌味のようにも聞こえてしまう。
手にじっとりと汗が滲んで来る。
「さあ、もう助けなんか来ないですよ、シンシアさん。諦めて投降してください」
ロングスピアを下段に構え、じりじりと黒き獣に詰め寄る。
「気を付けて! その獣は魔力生命体、普通の攻撃は殆ど通じません!」
まるで傍らに誰も居ないように、その竜人は息も絶え絶えな彼女の元へ何事も無く進んで行く。
「あの女を上手く御せぬというなら、いっそ捨て置け。あれは殺しても殺しても次々と湧いてくる代物。ならばその夢魔で、竪琴の方を打ち壊せ」
「────えっ……そっ、そんな……そうしたら森の皆まで…………!」
「あれは普通の外力では壊し切れん。主が出来ぬというなら、それを貸せ」
その簡明直截なやり取りに、私もアゼルさんもつい唖然としてしまう。最初に動いたのは、アゼルさんの方だった。
「早速馬脚を現しましたね! 竪琴には指一本触れさせないし、証拠隠滅……ならぬ貴重な証人もここで殺させる訳には行きません!」
アゼルさんの向けた長槍を、竜人はまるで小枝でももぐように易々とそれを奪い取ると、そのまま穂先を半回転させ、彼の左肩付近、甲冑の隙間に造作も無く突き立てる。
「ぐぁっ……!!!」
鎧袖一触。銛で突いた魚みたいに彼が放り投げられると、思い切り巨柱に叩き付けられ、その衝撃で鉄兜が大きく吹き飛んで行く。
「────アっ……アゼルさんっ!?」
頭の中が真っ白になり掛けたけれど、とにかく条件反射で彼の元に駆け出す。
「さあ、早く貸すのだ。時間が無い」
「あっ……あぁっ…………だっ、だめ……絶対に、駄目、です……っ!!」
極度の恐怖に急き立てられながら、シンシアさんは背中を向けて必死に抵抗している。
「ストーーーーップ!! ……って、ちょっぴり遅かったかしら?」
大きな声と共に公国兵達が一気に雪崩れ込んでくる。この声は……エマ様?
「…………ほ、ホントですよ……勘弁、してくださ、い…………」
青ざめた顔で彼は小さく呻きながら、その言葉を最後に、気を失ってしまう。
わなわなと大きく手が震え始める。
まだ息はある、微かに脈もある。きっと急所も外れている。
もう泣き虫な自分は捨て去ったつもりだったのに。こんな時に泣いたってどうしようもないって分かっていたのに。両の瞳はいつの間にか悲しみの雫で溢れ返ってしまっている。
気付けば私は、無我夢中で彼の上半身を抱き締め、少しでも再生を促すよう、純粋な魔力を目一杯注ぎ込んでいた。こんなの、治癒魔法ですら無い。ただの肉体活性化。医学も一杯学んで来たというのに、もうこんな事位しか頭に浮かばない。
彼の背に回した手には、金属の表面をじっとりと滑りが伝い、噎せ返る程の鉄臭さが益々(ますます)私を混乱させて来る。
ふと、後ろで喧噪が聞こえる。誰かが私を引き剥がそうとしている事に気付く。
「皇女殿下、落ち着いて!! 早く退いてください!! 今は止血を優先して、この槍を抜く必要があります! 大丈夫、きっと彼は助かります!!」
衛生兵数人掛かりで羽交い締めにされ、とうとう彼に手が届かなくなる。私はひたすら何かを叫び続けていた。
「先ず鎧を外せ! それから周囲の圧迫、抜くと同時に焼き鏝で軽く傷を塞げ! 運び出すのはその後だ! 失血が激しく、体温も急激に下がり始めている、処置室には毛布と大量の湯を! もし意識が戻れば、薄い塩水を無理にでも大量に飲ませておけ! くれぐれも溺れさせるなよ! 治癒魔法や肉体再生術は後回しだ!」
両足に力が入らず、へたり込んでしまう。的確な指示が飛び交うその光景を、魂の抜けたままで、濡れた窓ガラス越しに眺める。
ふと、後ろから小さく肩を叩かれ、話掛けられている。
「しばらく貴女も彼の治療に専念してあげて……あの逆賊二人は、私が何とかしておいたから。儀式も、当面私がやらせて貰うわ」
そうして最後に、そっと耳元で囁いて来る。
(貴女の大切な人だったのね……ほんの少しだけ間に合わず、本当にごめんなさい)
見上げると、そこに立っていたのは、深い苦渋を浮かべたエマ様だった。
そこから先の事は、もう殆ど憶えていない。
肩から胸に掛けて幾重にも包帯が巻かれ、私のベッドに寝かされている、彼の身体。
寄り添って、ひたすら魔力を篭めて優しく抱擁し、土気色に染まらないよう、何とか命を繋ぎ止める。
しばらくの間、そんな小さな祈りにも似た無音の日々だけが、横たわる事となる。




