シンフォニー 2譜 爪牙
「────お願い、あの人を捉えて動けなくしてっ!!」
シンシアさんの裂帛が響き渡る。
黒豹の形をした夢幻の神獣が、緩く溶けるように、滑るように、一直線にこちらへと向かって来る。
霧状の前足は、跳び掛かる直前でようやくそのぼやけた輪郭を確かにし、結晶の如く煌めく鉤爪で私の胸元を掠め取ろうとして来る。
私はその前足を右の肘と膝で上下から挟んで受け止め、そのまま身体を捻り、大きく宙に放り投げる。
そのまま勢いを殺さず軸足毎身体を回転させると、景色は右に大きくスライドし、再び獣を視界に捉えるよりも早く、がら空きの横っ腹へ上段後ろ回し蹴りを叩き込む。
インパクトの瞬間、息をしっかりと吐き切り、最大限の力を集中させ、反動は全て爪先から床の力を使って押し返す。
──得も言われぬ、重い手応え。
これがもし普通の動物なら、肋骨を割って内臓までダメージが入っていただろう。
……認めたくはなかったけれど、私はどこかムシャクシャしてしまっている。
平和に過ごしていれば、何の気兼ね無く自由な恋愛を謳歌出来て、彼と愛し合う事にも、何ら支障は無い身分だというのに。
それなのに、本当に手に入るかも分からない同族の恒久的安寧だなんて巫山戯た妄執に、その身を窶すだなんて。
余りに愚かで、滑稽過ぎる────。
いや、公国の民に全てを捧げている身としては、余り他人の事は言えないかもしれないけれど。
でも、言葉にしたくもないこの鬱憤は、今ここで少し晴らさせて貰おう。
それに、私は凄く貧乏性なんだ。
学んだ技術や技能は、折角だし思い切り試してみたい。
死の迫った戦闘なら、身体に深く馴染ませ、真に自分の物として会得する事が出来る。こんな千載一遇のチャンス、滅多に訪れない。
そして……お生憎様。私は徒手空拳が、一番自信のある戦い方なの。
全身に魔力を行き渡らせ、頑強な戦士にも負けない膂力を改めて紡ぎ直す。過剰に引き出す事で、明日どれだけ筋肉が痛んでも構わない。
もしここで殺されてしまうというのなら。意志を持たない操り人形にされるというなら。それもまた一興。所詮私は、〝その程度の器だった〟というだけの事。
たかが守り神一匹程度で、ヌアザ帝の血筋をどうにか出来るだなんて、随分と無礼られたものね。長年培ってきた私達の決意と覚悟を、その身に刻んであげる。
そう己を鼓舞していた所、二撃目が襲い来る。次は牙か。
足元に捨ててあったドーナツ状の布切れを拾い上げ、ふわりと投げ付ける。
一旦相手の視界を封じてから、軽く上体を反し、相手の速度を利用した掌底打ちを額にお見舞いする。肩口まで遡ってくる、鈍い感触。
そうして怯んだ所を、今度は喉元に腕を絡め、足を払い、背負い投げの要領で胴を直下に投げ落とす──衝突のタイミングに合わせ、微量の魔力を床に仕込んでおく。
ズンッ、という、押し潰された音と呻き。
打撃の効き難い魔力生命体だけど、こうして全身を打ちのめされたら、きっと一溜まりも無い筈だろう。その証拠に、喉奥から暗黒めいた霧を吐き、のたうち回っている。
さて。
立ち開かる神獣を短時間行動不能にした所で、瞬間的にそのまま右斜め前方に走る。地を撫でるように左手を下げ、低姿勢のまま、弧を描いて目標へ。
ご主人様を狙われると焦ったそれは、性懲りもなく立ち上がり、こちらへと向かってくる。
──掛かった。
左手で床を叩き、腕を軸にして鋭角に方向転換。急旋回と同時に床を強く蹴って跳び上がり、そのまま奴の脳天目掛けて薪割りの要領で一気に踵を振り下ろす。
足全体に返ってくる、岩を打った時のような衝撃。
更に小さく顔を蹴って距離を取る。
堪らずゴロゴロと横転するそれは、そのまま泥のように床に溶けて行く。そうしてドス黒い真っ平らな染みとなり、小さく蠢き始める。
気付けば、その黒い影もどきは私の足元を素早くすり抜け、背後へ──。
(────不意討ち!?)
冷や汗を掻く暇も無く、本能に従って咄嗟に前方に伏せる。眼前が床の大理石に覆われる。
頭上を通り過ぎたと思しきタイミングで、側転気味に一息で起き上がる。ティアラが落ちないよう一瞬だけ頭を抑え、視界が目まぐるしく反転して行く。
殆ど山勘だったけれど、予想通り間髪入れない二撃目があり、振り上げた足先が丁度襲い掛かる獣の顎に命中し、跳ね除けてくれた。
そうしてお互い姿勢を立て直すと、黒い獣は首を下げ、小さく唸っている。あれだけ頭部に打撃を集中させたというのに、殆どダメージが入っていないようだ。やはり狙うべき弱点は、使役側か……。
意図せず、血湧き、肉躍る。
この所ずっと色を失った心象風景は、今や赤みを帯び、奇しくも生を実感してしまう。
あの奇襲や追撃、そのどちらかをまともに受けていたら、きっと背骨や肺を抉られ死んでいた。いや、そのまま〝私の中〟へと入り込み、精神を貪り食われていただろうか。
「────はぁ……はぁ……」
微かに息が上がり、胸を抑える。流石に心肺までは増強し得ない。汗の量は、然程か。身体が軋み、取るに足らない張りを訴えて来る。
一方のシンシアさんは、何故か私以上に疲弊しているようだ。
あの精悍な魔力生命体を行使し続けるのは、相当な胆力が必要と見える。もし彼女までもが狼となり、犬型二体を並行して相手する羽目になっていたら──かなり不味かったかもしれない。
「あれ、もう終わり? 威勢の割に、大した事ないのね」
スタミナを回復をさせつつ、自然な挑発で場を繋ぐ。腕は身体の前に構えたまま、ジリジリと横移動し、直ぐ様大きく動けるよう精神を研ぎ澄まし、集中を続ける。
「どう……して……どうして、なんですかっ…………!!」
(それは……こちらの台詞、かな)
嘆きと怨嗟に塗れたその非難は、きっと従わない事に対してだけじゃない。一体、何をそんなに恨むというの。
もっと早く、色々と聞かせて欲しかった。相談して欲しかった。そうすれば、真っ当に手を差し伸べられたかもしれない。そんな過ぎ去ってしまった、もう訪れる事の無い絵空事に、つい無用な感傷を寄せてしまう。
脈は次第に落ち着き、息のリズムも整い始めている。
攻撃をいなしてカウンターを叩き込む方が断然効率が良くて好きだったけど、まだあちらは完全には立て直せていないようだし、折角の機会に付け入らせて貰う事にする。
彼女はさっきからペンダントを握った両手を胸に強く押し付け、苦悶の表情を浮かべている。まさか……自身を少しずつ食わせている? もしそれが本当なら、急がなくては。
例の境界喰いとやらを退け、彼女の元まで到達する算段を適当に頭の中で済ませる。
彫像の持つ御飾りの長物でも拝借しようかと悩んだけど、やはり私は生まれ持ったこの四肢に命を預ける方が、余程性に合っている。
対話も無く、無拍子に突進を始める。流れる景色の中、見詰めるのは件の獣、ただ一点。
先程までとは異なり、明らかに神獣側の反応が鈍い。
接敵する寸前、一旦大きくブレーキを掛け、全身を後ろに捻りながら、次の一歩を最大限踏み込む。野生動物に対しては出来るだけ曲線的な攻撃が良い。恐らくこいつも同じだろう。
獣の視界の外側から、その左頬を回転裏拳で強襲する。
熱く滲む手応えと共に、獣が向かって左にバランスを崩したのを確認し、隙だらけの胸肉に全力の足刀蹴りを入れ、身体二つ程後方へと蹌踉めかせる。
更に蹴った際の反発力を利用し、一気にシンシアさんの元へと駆け出す。
これなら俊敏さで劣ったとしても、初速の差で追い付けない。
そうして無防備に背後を曝し、微かに油断してしまった瞬間、接地した方の脹ら脛を強い衝撃が襲う。
「えっ──??」
相当距離があったというのに、蠍めいた尾が長く伸び、まるで変幻自在の鞭のように私の軸足を薙ぎ払っている。
重力を失って空中で仰向けになり、堆い角錐状の天井がスローモーションで視界に入ってくる。
素速く顎だけ引いて何とか後頭部は浮かせたけど、広い背中は対処出来ない。強かに打ち付けると、強制的に肺から空気が漏れ、目の奥に火花が爆ぜる。
ティアラが遠く、カランと音を立てたのが聞こえる。
痛みとその音により、ほんの一瞬だけ気を失ってしまったと知った刹那、前足によって既に両肩は上から拘束され、瞳孔の無いカナリヤイエローの瞳が、二つの月の夜のようにこちらを睨め付けて来ている──。




