シンフォニー 1譜 謀叛
明くる日から、私はどこで何をしていたのか、何を言われたのか、全く覚えてない。ただ、気が付けばいつものように、離れの扉の前に居た。
(────ああ、奏でなくては)
この世の終わりとばかりに、辺りは灰色に染まってしまっている。
数日も経てば、きっと多少は気持ちが落ち着くだろうと思っていた。でも、未だに食事が碌に喉を通らない。食べた記憶すら曖昧になっている。
眠れない。眠り方をまるで思い出せない。
時折窓に映る自分を見遣る。こんなにも窶れていただろうかと見る度に思う。
それでも私は、挫ける事なんて出来ない。彼を深く傷付けてまで、自ら選んだ道なのだから。
…………でも、ごめんなさい、アゼルさん、ちょっと無理そうかも。
絶望と諦観が日々侵食してくる。彼に縋って思い切り甘えてしまいたくなる。
それでも不日の内、怪訝そうな目で私を見てくる彼を見て、改めてもう戻れない現実を突き付けられ、また止め処ないあの日の涙が瞳の奥を掠める。
忌々しい程の未練が、再び首を擡げて来る。
私が絶ったのは、彼の中にあった脆弱な私自身。
この国にやって来た日、初めてこの地に足を踏み入れた時に戻ってしまった、ただそれだけの事。それなのに。
初めから無かった事にするのと、少しずつ失われて行く事。果たしてどちらが良かったのか、その答えにもう意味なんて無い。そう自分を諭し、咎め、生きて行くしかない。
偶の儀式は、日々小さな離れで執り行われる。
神殿じみた小綺麗な外観を除けば、まるで深閑な共同墓地のよう。四方には、背の高い飾り格子の鉄柵が二重に聳える。
護衛らはその鉄柵の外側で待機し、扉の前には私ただ一人。片膝を突き、〝星屑のティアラ〟を頭上に掲げ、結界の一部を開け放つ。
────あと何百、何千回、これを行わなければならないのだろう。やがて歴史の一部になるその日まで。
ティアラを戴き、心を無にし、歩みを進める。離れには清らかな湯の湧き続ける浴室もあったけれど、沐浴は幻想宮の本殿で既に済ませてある。一人では到底着る事の出来ない瀟洒なドレスを神々にご覧いただくために、数十年に亘って続いている、尊くも些末な慣例。
重く荘厳な扉を抜けると、ほんの僅かな違和感が通り過ぎる。いつもなら直ぐに入り口の結界を閉ざす所、この日は何となく、小指の幅位開けたままにしてみる。
日々私だけが出入りするにも拘わらず、ここには塵一つ無い。いつもはまるで、時が止まったかのような異質さなのに。
今日は雨上がりで、室内は既に仄かな湿り気を帯びている──。
中央の広間には何の仕切りもなく、間取りは礼拝堂とほぼ同じ。壁から少し離れた所には、数人でも抱えられないような巨柱が最奥まで連綿と続いている。床の両端はアリスブルーに染め上げられ、まるで天に浮かんだ雲の道のよう。
柱とは交互に天馬や戦乙女の像が美しく並び立ち、竪琴の待つ祭壇へと誘う。窓は少ないのに、採光は工夫されていて、日中の明るさには困らない。
ふと、強い殺気を感じる。上体を反らしながら後ろに跳ぶと、胡乱なる影が眼前を過ぎり、高く鋭い何かの裂ける音が耳を劈く。
────両足を、狙われた?
入った時から既にある、微かな人の気配。織り込み済みではあったけれど、早速来たか。
「…………抵抗しないでください、お願いです。皇女殿下」
急襲してきた黒く低い影とは別に、奥の方から少し震えた女性の声がする。どこかで聞き覚えのある、その優しい声音。
手前には鉄砂を集めるようにして具現化していく漆黒の体躯。それは殆ど黒豹のようで、何故か尻尾だけは歪に蠍じみている。
その獣を注視しながら、裾を踏み、真一文字に薙がれたスカートの裂け目を、慎重に周囲に伸ばしていく。
両足は無事。先の一撃は脅しのつもりだったのだろうか。説得を試みるために追撃の手を休めるだなんて。本当に甘過ぎる。
奥の物陰から現れた言の葉の主は、メイド服を纏った麗人、シンシアさんだった。道理で記憶に引っ掛かる筈。ただ、表情だけが記憶と違い、重く沈んでいる。
「最近見ないと思ったら……こんな所で何をしているの?」
心の中で警戒したまま、手の動きを止めず、暢気に応じる。
最近体調を崩しているという話だったけれど。何とか裾を膝丈辺りで円状に千切り終える頃、頭の中でパズルのピースが少しずつ繋がって行く。
今日はシンプルなベルラインスカートで、パニエも短めなのが幸いした。
裂き切った布片を足元にそっと捨て置く。
コルセットは……ここ最近痩せ痩けているし、多分問題は無いだろう。
「わっ……私に従ってください……そうすれば、何とか、命だけは……」
遠目で少し分かり難かったけれど、胸元で祈るようにペンダントか何かを握り締めている。
酷く怯えた声で、動揺を隠し切れていない。全く、こんな様子では、傍から見たら一体どちらの命が狙われているのか分からない。
あの黒い獣はただの魔獣ではなく、幻獣か何かの魔力生命体か。では、握り締めたあのペンダントはその〝核〟といった所。
「ごめんなさい、シンシアさん、私、何が何だか分からなくって……従うって何? いきなりどうしちゃったの?」
こちらは既に戦意を含め、とっくに準備は整ってはいたけれど、素知らぬ顔で、先に出来るだけの情報を引き出そうと試みる。
こんな時ですら、あの穏やかな性格を演じ続けているとは思い難い。生来、人を傷付けるより、自分を傷付ける方が得意なタイプなのだろう。
だから、捕まえた途端に自害されてしまっては敵わない。
「……あっ、あの……詳しい事は、まだお話出来ないのです……ただ、どうしてもこの儀式を掌握して、皇女殿下には当面、人質になっていただきたくて……もし抵抗なさると言うなら、その子、境界喰いで心を壊さないといけなくなります…………だから、だからどうかお願い致します。しばらくの間、大人しく従ってはいただけませんでしょうか……」
なるほど。その話し振りからして、黒幕は〝内〟では無く、帝国に仇為す者。即ち外部。彼女は間者として巧妙に潜伏し続け、虎視眈々とこの機会を窺っていた、と。
「境界喰い……人質……一体何を言っているの? 何の話? 少なくとも私はそんな脅しには屈しません。それに、こんな事をしてただで済むと思っているの? 貴女に一体何の利があるというの!?」
悲しげに叫ぶ。我ながら飛んだ三文芝居。もっと歌劇の練習でもしておくべきだったか。しかし、冷静さを欠いた今の彼女なら、きっと気付かれまい。
「わっ、私は……ただ、故郷の皆や森を守りたいだけで……その子は村に代々伝わる守り神で、自他の境界を喰らう獣です、心を壊して、廃人にしてしまう恐ろしい子なんです。皇女殿下は本当にご立派で、お優しくて、実は今もとてもお慕い申し上げております……だから、本当なら、こんな事はしたく無くて…………」
涙声になっている。虫も殺せないとは正にこの事。完全なる配役ミスだろう。諜報の方は、完璧過ぎる嫌いがあったけれど。
ただ、状況は概ね把握出来た。
恐らく半狼の地位向上や保護をちらつかせ、私を傀儡とし、実質的にこの国を支配下に置こうという魂胆か。
────心を壊す。
本音を言えば、これ以上壊してくれるというのなら、いっそバラバラに砕いて欲しい位なんだけど。
それでも、こんな浅はかな策を弄し、裏で手を引く奸悪な連中が、一々彼女との約束を守るなんて信じ難い。ここはシンシアさんのためにも、何とか食い止めなくては。
「出来る物ならやってみなさい! もし適わなければ、貴女だけでなく、貴女の同朋達も皆、厳罰は免れないでしょう。最悪一族郎党、根絶やしにされるかもしれないわ。そしてそれを望んだのは、他でも無い、貴女自身なのよ!」
先程とは打って変わって、威圧的な宣戦布告。
「っ……!! どうして……皇女殿下なら、きっとご理解くださるって…………」
苦虫を噛み潰したような顔で、胸元のペンダントを両手で緊く握り締め、ようやく対峙する決意を固めている。
ここを閉ざす星屑の結界も、元を辿れば半狼達が森で人を惑わせる秘術を応用したものと聞いた事がある。図らずも、既に獅子身中の虫だったという事か。




