ノクターン 5譜 途切れる想い
「……汝、健やかなる時も、病める時も、喜びの中に有る時も、悲しみに暮れる時も、いつ如何なる時に於いても、クラウディア=フォン=ミュースを妻として敬い、慈しみ、慰め、十世十夜の果てまでも、その身を深く捧げ、愛してくれると、誓いますか?」
「──〝誓います〟」
どうして恋は、いや、彼は、こんなにも私を意気地無しにしてしまうんだろう。仕上げはこの指輪を彼の指に嵌めるだけなのに。それで全て〝丸く収まる〟というのに。
左手を小さく掲げ、差し出してくる。
ネックレスのチェーンから指輪を外し、差し出された指へと近付ける。
手が震えて来てしまう。
〝今ならまだ留まれるだろう?〟私の中で悪魔がそう囁く。
ピリピリと腹の底が痛くて、どうしようもなく苦しくて、息が出来なくなる。
〝どうしてこんな事をしているの? 彼はシンシアさんじゃなくて、私を愛してくれるって誓ったのに〟。
そんな戸惑いが渦巻く。
でも、それが怖い。私を愛していてくれるという事が、どうしようもなく怖いんだ。
純真な白薔薇の中で、純真とは程遠い、こんな嘘塗れのやり取りをして。篝火のパチパチと弾ける音が、やけに私を脅かしてきて。
「…………凄く顔が青いけど、大丈夫?」
制止させられそうになったその瞬間。
弾かれるように彼を手を取り、とうとうその〝裏切り〟を実行する。
指輪は彼の薬指に収まる。
指の太さが違って、第二関節の手前までしか入らなかったけど、これでもう充分。
まるで自らの胸にナイフを突き立てたかのような、燃え上がるような後悔が私を襲う。
気が付くと、先のキスの時とは段違いの、更に大粒の驟雨が彼の顔に降り注いでいる。
大好きなアゼルさんの顔が、闇に歪み、夜に溶けて、消えて行ってしまいそう。だから急いで、私の顔を両手で覆う。
やがて無様な、情けない嗚咽だけが辺りに木霊し始める。
彼は最初、それを感極まったものと見倣してくれたのか、背中をゆっくりとさすり、落ち着かせようとしてくれた。
だから──だから早く、泣きやまなくては。向日葵みたいに真っ直ぐな笑顔を彼に向けて、安心させてあげなくては。
何度も何度も涙を拭っているのに、もう皹の入ったワイングラスのように、雫が止まらない。
ああ…………あの口付けに、幸せなんか感じるんじゃなかった。
お母様の言いつけなんか守らず、もっと張り付いた笑顔の練習をしておくべきだった。
大好きな人との〝さようなら〟さえ、今は我慢しなくちゃいけない。
そんな風に考えたら、また飛び切り弱虫な情動が胸の奥から止め処なく溢れて来てしまう。
「何か……したんだね?」
叱り付けるでも無く、他愛のない悪戯をした子供に対し、ただ事実だけ確認するように。その優しく温かい慈愛の声が、私の心を更に深く抉って来る。
彼自身、途轍も無く嫌な予感がしていて、きっと不安で一杯だろうに。
両目を擦りながら、亀裂の入ってしまった感情をどうにか塞ごうと、精一杯首を振る。何とか〝違うの〟って伝えなくちゃ。
「──たった今、誓ったばかりなんだ、クラウディア。君の事をずっと敬い、慰めてあげるって。それに、自分に嘘を吐くのだけは絶対に駄目だ。だから……包み隠さず、その辛さを僕にも少しだけ分けてくれると嬉しいな」
お母様みたいな事を言いながら、半ば強引に私を抱き寄せ、目尻にキスされる。
「だって、ほら、凄くしょっぱい。テオドアさんに聞いたんだ。悲しい時の女の涙は、殊更しょぱいぞって。嬉しい時のは、ただの水みたいだぞって」
彼の上に跨ったまま、ひたすら頭を撫でられ、あやしてもらう。
態と子供みたいな態度を取って、彼の関心を引こうと頑張った事は、今までにも沢山あったけど。この体たらくでは、本当にただの子供でしかない。
余計に惨めに思えてきて、心が張り裂けて行く。
これからはこの途方も無い痛みを、孤独を、彼無しの一人きり受け止めて行かなければならない。
少し前までは、〝ちょっと寂しいな〟位だったのに。
「お願いだ、話してよ…………クラウディア」
ああ、駄目だ。横恋慕の誤解が解けた時、最後はせめて幸せな気持ちで彼を送り出そうって、心に決めていたのに。全部隠し通したままで終わらせようって、決めていたのに。
「ねぇ、クラウディアってば」
それ以上、優しい言葉で私を甘やかさないで。私を弱くしないで。
「大好きだよ、クラウディア。本当に……本当に君の事を心から愛している。僕の事、そんなに信用出来ない? 全部君と一緒が良い。どんな苦しみや悲しみも、一緒が良いんだ。喜びも悲しみも、全部二人一緒に……だからさ、今のその悲しみをせめて半分、半分だけ僕に分けて欲しいんだ」
そうか、半分。半分だけなら、
そうして私の作り上げた虚ろの仮面は、目元だけを残して無惨に砕け散る。
「…………忘れちゃうの」
彼の胸に顔を埋め、囁く。
続きは、催促してくれない。
「明日にはもう……全部忘れちゃうの。出会う前からずっと好きでいてくれて、私からも大好きになって。でも……でもね、もうさっきの誓いも、今の想いも、全部全部、明日には消えちゃうの。消えて無くなっちゃうの…………」
認めたくなかった事実を、自分にさえ隠していたそれを、ぐずりながらようやく鳩尾の底から引っ張り出す。
「な……! それは一体、どういう……琴切りの指輪は、精々今日の記憶を明日に持ち越せなくなるだけなんじゃ…………」
彼の動揺に注意を割けないまま、気付けば滔々と打ち明けてしまっていた。エマ様から聞いた、漏らしてはいけない大切な秘密を。
そして何故、私がそれを選んだかを。
最初にこの場所に、白薔薇の園にやって来た時は、一時の思い出を作って、全てを諦めようとして。
想いが通じ合っていると悟ってからは、この想いが、幸せが、少しずつ崩れていくのを想像する日々が、やっぱり凄く怖くて。辛くて。
貴方を待たせ続ける日々に、どうしても耐えられそうになくて。
そんなの、ただの臆病で、不甲斐無いだけ。無責任なだけ。そうして泣きじゃくりながら、ただの身勝手で、彼に対して本当に酷い事をしてしまったと、改めて自分自身を激しく責め立てる。
やがて静寂が欠伸をし始めた頃、気付けば彼に寄り添って、その腕の中に沈んでいた。涙は全て、ぽっかりと空いた自身の胸の虚空へと落ちて行く。
「────君が……君がそう望んだんだね…………やっぱり、僕が困らせてしまっていたみたいだ……」
絶望と自戒の滲む声で、焦燥感を必死に押し殺している。
ただ私が裏切っただけなのに。それを責める事すらしない。そんなの、優しさを通り越して、本当にただの甘やかせだ。心の中でそんな風に彼を非難している自分に、辟易してしまう。
抱えた私を緩く解放し、再び唇を繋ぐ。
こんな時でさえ、不思議と心地好いんだなって、ぼんやりと考える。
ああ、そんなに名残惜しそうな顔をしないで。その顔が、私の中の最後の貴方になってしまうから。
「そっか……僕達は、出会わなかった事になるんだ……」
自らの指輪を天に掲げ、無理矢理自分を納得させようとしている。
「…………うん」
本当は、少し違う。半分しか正解じゃない。
「でも僕は、きっとまた直ぐにクラウディアの事を大好きなっちゃうよ。だって、今の仕事はそのままなんだから」
見詰め合うと、仄かに苦笑してくれる。私は今、どんなに穢れた表情をしているのだろう。
「でも……今度はこんなにも辛くて、重い決断を君がしなくても良いよう、最初の頃みたいに、僕はずっと影で見守るだけにした方が良さそう……かな?」
また私を深く抱擁して。
少し戯けて、きっと凄く辛いだろうに、私を励まそうとしてくれている。
あろう事か、未来の私の心配までしてくれている。
身勝手な私なんかと違って、包み隠さず相談までしてくれている。
私はただ、貴方をいつまでも待たせる自分が許せなくて、その間に心変わりされてしまうのがどうしても怖くて、貴方を深く傷付けてしまっただけだというのに。
貴方の想いを、無下にしてしまったというのに。
でも、もうそんな未来、二度とやって来ない。彼との恋は、絶対に再来しない。
だって……私はずっと貴方だけを想い、貴方を避け続けるんだもの。貴方からの他人を見る眼差しに、耐えられそうにないんだもの。
「ひょっとして、まだ何か隠してる?」
心臓がズキリと跳ね、咄嗟にキスで誤魔化してみる。逆効果だったと気付いたのは、唇が触れ合ってからだった。
「まさか……君の方は、忘れない?」
首を横に振らせないよう、彼は私の顔を両手で挟み、真剣な眼差しで見詰めてくる。
「聞いた事があるんだ。あの指輪は、〝夢弾きの偶には効果が無い〟って……」
何とか目を泳がさずには済んだけど、瞼を下ろし、言葉に詰まってしまう。頬に触れる彼の手は震えていて、嘘や言い訳を全て掻き消してしまう。
〝半分だけの曝露〟に食い止める妙案を、必死に頭の中で模索する。
「ごめん、時間が無い」
いきなり引き剥がされ、彼が立ち上がっている。
「絶対に──なんて言い切れない。だけど、やっぱり君の事を忘れたくなんか無い。どうしても嫌なんだ。僕だけなら、僕が何とかすれば良い。だから……ごめん。君の決断に逆らってしまう暴挙を、どうか赦して欲しい」
へたり込んで座っていた所に、両肩を強く掴まれる。寝室に押し戻されたあの日よりもずっと強く、痛い位に。
「明日直ぐにだとか、全部だとか。そんなのは到底無理だろうけど……だけど絶対、絶対このまま終わらせない。終わらせやしない。だから……少しの間、待っていて欲しい。もしも……もしも抗う事が出来たなら、その時は、二人だけの秘蹟、絶対に守って貰うから」
真っ直ぐな瞳で私にそう告げて、足早に暗がりへと消えていく。
その言葉は、正直とても嬉しかった。凄く。
でも……でもね、全てはもう手遅れなの。あのエマ様にだって効いてしまう代物。もうどうしようもならなくて、終わりの朝はもう直ぐそこまで迫ってしまっている。
私はただ茫然自失で、自ら犯した過ちだけをこの両手の中に深く握り締めていた。




