ノクターン 4譜 偽物の誓い
「……? シンシアさん? 何で急に今そんな名前が……って、あれ? ひょっとして何かとんでもない勘違いをされていませんか?」
無為な雫に曝されていた彼の面持ちが、次第に晴れ渡って行く。
「だ、だって……以前、凄く仲良さそうに、楽しそうにお話をしてたから……」
もじもじと。我ながら驚く程の及び腰で、その意味をようやく理解しようと努め始める。
ずっと彼の上に乗ったまま、重いであろう事もすっかり忘れ、動揺し切っている。そんな私に、今度は彼の方から優しく穏やかなキスをして、落ち着かせようとしてくれている。
余りにも自然な仕草で、何だか少し妬けて来てしまう。
ああきっと、こういう所まで好きになってしまったんだな……って、ふと感じる。
「本当に……本当に良かった……てっきり僕の事で困らせているとばかり。そんなの、ただの誤解です」
目を伏せてはにかみ、私の頭をぎゅっと抱き寄せてくる。そのまま添い寝するような格好になって、彼の胸に耳を寄せる。服越しだけど、私と同じ位早鐘を打っているのが能く分かる。
「ほんの少し長くなってしまいますけど……聞いていただけますか?」
無言の相槌。本当はもっと、肝心要な部分を先に聞き出しておきたかったんだけれど。
「この国に来るまでの事は、以前お話しした通りです。ただ僕は最初、ブラックベリル商会で食材運びをしていました。そこで偶然、窓越しにクラウディア様を見てしまって……正に〝深窓のご令嬢〟といった雰囲気で、完全に一目惚れでした」
私の頭の後ろの、星々と天を見上げながら続ける。
「多分、来られたばかりの日だったんだと思います。盛大に色々と仕入れていましたから。いずれも最高級品ばかりの筈なのに、あの日見たクラウディア様は、まるで空気でも食べているみたいで……とても寂しそうで、孤独そうで。あんなに豪華で美味しそうな料理なのに、どうして……ってずっと不思議で。それから直ぐ、この人の笑顔を見てみたいなって、思い始めていたんです」
そう言えばアゼルさんを見掛けるようになったのは、公国に来てしばらく経ってからの事だった気がする。
こちらが彼を意識するずっと前から知られていただなんて、恥ずかし過ぎて、無意識に彼の胸に顔を埋めてしまう。
「それからもっと近くで、お側で見ていたいという欲が抑え切れなくなってしまって……とうとう護衛の登用試験に合格して。こんな形ですから、相当苦労しました。そうしてようやく、クラウディア様の近くに辿り着けたと思ったら、いきなりお声掛けいただいて、色々と構っていただいて。きっと内心、とても不審に思っているんだろうなって……何となく分かっていました」
「…………ごめんなさい、貴方だけ飛び抜けて若かったから、つい……」
初めての晩餐会を含め、全て筒抜けだった照れ臭さに耐え切れず、彼の胸にグリグリと顔を擦りつけてしまう。
ずっと茶々を入れて来たけど、やっぱり男の人の胸板なんだなって、ついつい思ってしまう。
ついでに、涙の跡まで拭ってしまった。
「そうしてクラウディア様の仕草や声に、益々魅了されて。途中から、こちらの気持ちには恐らく気付かれていない事も、何となく分かって。だから、途中から少し、調子に乗ってしまっていたかもしれません」
確かに思い返すと、最初の頃の警戒感は並ではなかった気がする。だから、余計に気になってしまったのだけれど。
「結構あからさまだったのに……意外と大丈夫なんだなって。でもそれは、結局僕の方も一緒だったみたいです。それにしても、本当に……本当に夢みたいだ! これが夢なら、どうか覚めないで欲しい」
そう言ってまたぎゅっと抱き締めてくれる。何だか彼の匂いを強く感じられ、とても安らぐ。
「…………私も……」
でも、いつか夢は終わる。朝は来る。
「正直な所、好き合いたいだなんて、これっぽっちも考えていませんでした。ただ、ずっと貴女に笑っていて欲しかった。少し、ほんの少しだけ邪な憧れがあったかもしれない。だけど、何と言っても〝夢弾きの偶〟の、皇女殿下ですから。本来なら、僕なんかじゃ絶対に手の届かない存在なんです」
「……そんな事言うなら……私だって、別になりたくてなった訳じゃ、ないもん……」
また、だ。また無意識の内に弱音が口を衝いてしまっている。こんな本心、お母様にだって打ち明けた事は無いのに。
「……ねぇ、それよりシンシアさんは? シンシアさんとは本当に何も無いの?」
甘えついでに、胸を叩いて最重要な本題を促す。
「はは……そんな事、ある訳ないじゃないですか。彼女は貴女の事をよく知っていたので、それだけです。〝情報収集〟は戦の基本ですからね。見返りとして、昔の伝手で珍しい食材を幾つか手配はさせてはいただきましたけど……本当にただそれだけの関係です」
それじゃあ……シンシアさんとは、きっとこれからなんだ。
不意に彼が私を両脇から持ち上げ、キスを求めてくる。
先の粗暴さとは打って変わって、お互い少しずつ、啄むように、互いの気持ちを深く確認し合うように。
ああ、今度はちゃんと、恋人の味がする。
吐息の間隔や呼吸のリズムが、一つになっていく。
私だけが好きだなんて、本当は凄く嫌だった。だから、最後のキスとしては百点満点。いや、百二十点満点かもしれない。
「そんなに複雑そうな顔をしないでください……確かにお互いこの格好だと……その……何だか男色じみてるかもしれないですけど?」
きっと場違いな冗談を言って、無理に笑いを誘ってくれたのだろう。でも私は首を振る。彼は乱れた髪の毛をそっと耳に掛けてくれる。少しくすぐったい。
「全然心配しなくて大丈夫です。貴女がこんな下らない男の虜になってしまったのは、僕の策略にまんまと嵌って、籠絡されてしまっただけなんです。だから……だからいつまでも、ずっとお待ちしておりますよ? 〝囚われのお姫様〟」
狡い。本当に狡い。こんな時だけ紳士らしく、男前に、自分だけ格好付けようとしてくるなんて。こんなにも私を惚れさせておいて、〝次の勇気と決心〟を削ごうとするなんて。
再び馬乗りになる。彼の相好に、私の暗い影が落ちる。
「ねえ……〝誓いの儀〟……しよ? 形だけでも、安心したいから」
「え? それなら……宣誓だけで良いですか? それと、後からキャンセルなんて、絶対無しですからね?」
「指輪──〝琴切りの指輪〟なら、今も……持って、るよね?」
「あ、でも…………それだと今日の事が……」
「大丈夫。お互いのを交換っこすれば」
「……なるほど。分かりました。それじゃあ──」
「先ずはアゼルさんの方から、奏上を……お願い」
「こほん。それでは……汝、健やかなる時も、病める時も、喜びの中に有る時も、悲しみに暮れる時も、いつ如何なる時に於いても、アゼル=リントヴルムを夫として敬い、慈しみ、慰め、永久に……いや、〝十世十夜の果てまでも〟その身を深く捧げ、愛し続けると誓いますか?」
「……何それ、ちょっと違う」
「良っ、良いじゃないですか、さっき思い付いただけですけど、僕達二人だけの、特別な秘蹟って事で……」
「うん。じゃあ〝誓います〟」
欺瞞に塗れたこの〝ごっこ遊び〟の中で、一筋だけ本当の想いを、本当の誓いをそっと練り込む。
私は、貴方の事を決して忘れない。〝偶〟のまま、秘かに愛し続けるんだ。
どれだけ時間が経っても、たとえ貴方が、他の女性と結ばれてしまっても──。
左手を翳し、指輪を嵌めて貰う。緩くて直ぐ外れそうになるそれを、ぎゅっと握り締める。
「それじゃあ次は、クラウディア様の番ですね?」
「…………こんな時まで、〝様〟は嫌──」
「じゃあ、クラウディア。お願い」
彼の指が、私の頬に触れる。




